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2009年12月のたみこさんの部屋

「 すっとのびた背筋 」
〜 発表会を終えて
 〜

今年の発表会もいろんなドラマが生まれました。

年長(まつぐみ)は大事に読み続けた絵本「忘れられないおくりもの」を劇にしたもの、と、大好きな「どろぼう学校」の2つを演じました。基本的に「やりたいものをやる」のですが、キャストとしては「うん??」ということもあるのです。

・・・この
「うん??」
から、それこそ劇的に変化・成長することもあります。

「どろぼう学校」では、園生活のなかでは決して聞かれないだろう「ばっきゃろう!!」という大声での合唱をする練習もあって、その時の子どもたちのうれしそうなことといったらありません。

「忘れられないおくりもの」の最初の「舞台げいこ」(わぁー、プロっぽいなぁ)の時、私が突如乱入しますと、子どもたちにサッと緊張が走ります。

(私ってそんなにコワい?)

そして、セリフを言っている女の子に向かい怒鳴ります。
「そんな声じゃ聞こえない!あなたの伝えたいことはなに?そんな声では伝わらないよ?」

(やっぱりコワい!)

セリフを言っていたその子は思わずシクシクと泣き出しました。
涙を飲み込んでまた言いはじめたセリフは、ふるえていました。
そんな練習を重ねて、発表会本番をむかえました。

私にどなられて泣いたその子のセリフの時です。すわっていた木の切り株から立ち上がって語る重要な場面。
立ってすぐのひと言めは、か細く、小さい、と思ったそのときです。

その子の背筋がすっと伸びるのを見ました。

そして、次の言葉からはしっかりとよく通る声で堂々と演じ、語りました。

私は舞台のわき、幕のかげででその姿を見、声をきいていました。びっくりして、次には涙があふれました。となりで見守っていた職員も泣いていました。

終わって数日後、その子と話すチャンスがありました。
「とてもよく伝わったよ! 声もしっかり聞こえたよ」と言うと、その子は
「たみこさん、あのね、私最初セリフ言ってから、アッ、もう少し声だせるな、って自分で思ったの」
そうか。そのときに背中がスッと伸びたのね。

伝えたい事を伝えようと自分で決めたときの、その一瞬、あなたの背筋が美しくのびたのね。私はそれを見たんだ!
そこにいっしょにいられたことを心から幸福に思いました。

さて、私がトンネルのむこうにいく時には、子どもたちの心のなかにどんなおくりものをのこせるだろうか。


2009年11月のたみこさんの部屋

「 トイレのドアから見えたこと 」

「もぉ〜! どうしようかなぁ。どう思います?」

困り顔の職員が事務室にやってきました。
聞くと、トイレに入った子が「やだよ!」と言っているのに、戸をおさえて出られないようにしているAのこと。
「いやがっているから、やめようネ!」
と言ってもち〜っとも聞かないのだそうです。
怒った職員は、

「じゃあ、あなたが入ってなさい!」

とトイレのなかに入れてきたとのこと。
どうしてかなぁ〜、あの感じ。いけないってことはわかってるはずだけど・・・・と。
トイレに入ってなさいと言ったものの、迷っている様子。

どれどれ・・・
と私はトイレに向かいました。

ちらりとのぞくと、Aが戸を半分だけあけて、外をキョロキョロ見ています。その目を見て私は、
「A! 本当はいけないってわかってるんだよね。お友達がイヤだって言ってるのもわかってるよネ。先生にそう言ってこようね!」
たみこさん登場に少しびっくりしているAは、それでも素直に
「うん!」
とうなずきました。

「入ってなさい!」と言われても別にカギがかかってるわけでもないから、出てこようと思えばいつでも出てこられる。でもたぶん、また職員は自分のところに来てくれるにちがいない、そう確信して、ちょっとウレシく待っている、そんな目をしていたのです。

Aと手をつないで、職員のところに行き、Aには
「お話し、してごらん」

と言いながら、職員には、
「Aは、待ってたよ。こっちむいて、こっち来て、って感じなんじゃないかな」
と耳うちして、その場を離れました。

その後職員が話しにきました。

もしかしたら、"こっちむいて"もあるのかな、という気もしてたから、迷いながら怒ってしまった。
Aが話しに来たので、抱っこをして話しをした。
「A! お話しわかってくれて良かったよ。もうこれでイイね。
 どうする? 遊びに行く? それとももう少し、こうやって抱っこしてる?」

と聞くと、
「もうすこしこうしてる・・・」
とAは言い、しばらく抱っこして過ごしたそうです。
「なんだか涙出てきちゃって・・・」
と職員。
いけないとわかっていても、ついやってしまう。
心の中をのぞいて見ると、ちょっと甘えたい、もっとこっち向いてもらいたい、そんな思いに気づかされる時があります。

もうひとつ。

年長さんになると、人と人としてぶつかり合い、たまに職員が火のように怒ったりするときだってあるんです。

ここ一番、1対1で、と考えた職員C(男子)、その子をトイレに連れていって、
「おまえなぁ〜、おれがどんな気持ちかわかってくれよぉ〜!!」
と熱く熱く語り(どなり)ました。
ここ一番、どんなにその子のことが好きで、どんなにその子のこれからを大切に思っているか、今きちんと伝えたい! 
と涙ふりとばさんばかりの勢いで、
がんがんぶつかっていた・・・・ちょうどその時!!

大人用の個室から、
父母会の仕事かなんかで園に来ていた一人の母が・・・出て来たのです。

「わぁ〜
 お母さんゴメンね!
 出にくかったよねぇぇ〜」

と男子職員。
熱くどなりとばしていたテンションは一気に下がり、、、

でも、その子を思う熱い心は、何がトイレから飛び出してきても変わらない。
一日の終わりの子どもの話しをする時間に、職員みんなでその話しを聞いて、「わかる、わかる。」と泣いたり笑ったり。
忙しいったらありません。

そんなわけで、

トイレといえども、

この幼稚園、気が抜けないのであります。
気をつけて!!

 


2009年10月のたみこさんの部屋

「 バザーを途中で抜け出す 」

運動会が終わりました。
「みんなは1人のために、1人はみんなのために」
ひとりずつが輝くことで全体がきらめき、それによりひとりひとりが美しく、強くなりました。

西小岩幼稚園には、ハンディをもった子が何人かいます。
その子たちをふくめての、みんなの運動会です。できることも、できないこともあっての、みんなのみんなの運動会。
私たち職員は、ハンディを持つ子ひとりひとりが、どう動いたらいいのか、みんなで考え合います。

電動車いすで華麗に旗のまわりを回るのはどう?

など。

技巧台を上り下りするときは車いすで動ける斜面板を特注! 別のハンディをもつ子は、入場のときは抱っこするか、かけっこは自分で動きやすいように本人にきいてみる、玉入れのときはどうサポートしたら楽しめるかしら?

など、ひとりひとりについて細かく全職員で相談します。
もちろんハンディをとくにもたない子についても、自分の力をとことん発揮させたい!と話し合いを重ね、運動会へとつなげていきます。

あたたかな声援と拍手の中、
どの子も、どの子も、輝いていました。

 

 

正直、この幼稚園、ハンディを持つ子が多い。
多すぎるかも。

そんな声もきっとあります。
それなら先生の手がそっちにとられて大変なんじゃない?
など、心配する方も。

でも、

ハンディがあるという理由で幼稚園に入れないというのは、
なんで?
ハンディがあってはいけないの?
他の幼稚園で断られるのはどうしてなの?

この幼稚園では、ハンディがあるなしにまるで関わりなく接している子どもたちがいます。
歩きにくそうならよいしょとかかえたり、車いすなら押したり、立ちにくそうなら手を貸すし、ただただ「自然」です。
在園児のお家の方達も、いつも、どんなにかあたたかく見守り励ましてくれているか!
運動会でも自分の子と同じように涙をためて応援してくれて、自分が学ばされた、励まされたと熱くおたより帳を書いてくださる方も沢山いて、嬉しいことです。

年長さんのMは、装具をつけてあの長いトラック1周のリレーをみんなといっしょの距離走り通しました。
Mのママからのおたよりにこうあります。

M「リレーのとき、泣きそうだったんだ」
ママ「どうして? 長くてつらかった?」
M「なんでかっていうと、幼稚園最後の運動会だから」

(私たちがMの走りを涙を流して見ているとき、Mはそんなこと考えながら一心に走っていたのネ。拍手がずっと聞こえてたものね。)
ママのおたよりは続きます。

「私が考えているちっぽけな虚栄なんかより、よっぽどMは大人・・・」

 

「はっけよいの会 −西小岩幼稚園ハンディを持つ親の会−」

藤田さんの子分、大江さんを親分にして、お母さんたちみんな悩みながらもしっかり前を向いています。

私、誇らしいです。自慢です。

私たちはハンディがあろうがなかろうが、ここに子どもがいる限りいっしょに精いっぱい生きていきます!(決意表明か?)

 

ところで、

ですね、

11月7日(土)私の敬愛する「近藤益雄」先生(詩人、教師であった人。自ら生命を断って45年の障がい児教育に生涯を捧げた人)に学ぶとする講演会(清水寛 先生)のために、私、走ります。
12時頃に私いなくなります。

バザーの人、さみしいだろうけど、ガマンしてね!

たみこさんは
「人間のねうちを本当に平等に大切にする世の中」
(近藤先生の願ったコト)にむかうから。
理想の旗を高くかかげて、
いっしょに旗を持つ人と共に、
ヨロヨロでも歩きますから─。

 

2009年9月のたみこさんの部屋

「 りんどうの会 」

幼稚園の事務室のとなり、すみれ組のへやで、毎月第4土曜日の午後、小さな「デイケア」をやっているのを知っている人は少ないかもしれません。
「江戸川認知症の人と家族の会 りんどう」の集まりです。

今から20年以上前にうまれた「りんどう」は先代の園長である私の伯父(母の兄。生涯独身を通した人で、私たち姉弟をとても可愛がってくれました。とりわけ長女・長男に挟まれて時々さびしい思いをしていた私にも公平に接してくれた、大好きなおじチャンです)に、いわゆる「ぼけ」の症状があらわれ、どうしたらいいのかと困り果てていた時、保健所が開いた介護講座に参加したのが、会をつくるきっかけでした。

今は認知症、そのころは「ぼけ」。
それは今ほど世間に知られてもいない時です。

同じように「ぼけ」た家族を介護して、同じ悩みを持ち、講師の先生に話を聞いたり、ぐちをこぼし合ったり、それでずいぶんと気持ちが楽になったものです。そして、その講座で出会った仲間と「江戸川呆け老人をかかえる家族の会」をつくったのです。

名前をつけるときは、どうするかでもめました。私はクラスの名前「まつ・ばら・すみれ」のほかに2歳児の「ちゅうりっぷ」、小学生の「ひまわり」、預かり保育の「たんぽぽ」と、ただでさえこんがらがっているので、花の名前はやめてくれぇ〜、と願っていたのですが、仲間のマダムたちは花の名前がオスキ。それならいっそ「ボケの花」にして〜!と叫ぶ私ですがもちろん却下。秋に生まれた会なので、「りんどう」となりました。

それから1ヵ月に1回ずつの集会は絶えることなく続いているのです。
20年以上たてば、会の会長の義父も、副会長の母も、会計の義母も、そして私の伯父も亡くなりました。でも、みんなりんどうに居続けています。

思えば20年前、私は幼稚園で仕事をしながら伯父の介護をしていたわけで、伯父も時々老人保健施設のような所のデイケアを利用していました。

ところがそれが大変。
帰宅するとたいそう不機嫌で、
「たみこ!! どうしてこのオレがあんなじいさんばあさんにカスタネットのたたき方なんぞを教えなければならないんだ!? あん!?」
「オレのことおじいちゃんなんて呼びやがって!! 園長先生と呼べ、園長先生と! 実にけしからん!」

みんなでいっせいにカスタネットをたたいたりするのが、いたくお気に召さなかったようです。
(たしかに・・・やりたくないときもあるよなぁ)

わが「りんどう」デイケアのモットーは、
「てんでん、ばらばら、好き勝手!」です。

お茶を飲む人、お菓子を食べる人、散歩に行く人、しゃべり続ける人、歌う人。
そこは誰がスタッフで誰が利用者かわかりません。見事当てた人は豪華賞品をさしあげたい!
(さしあげませんが、気持ちだけ)

さて、その「りんどうの会」の20周年行事の講演会があります。

今月のたみこさんのへやは、その宣伝です 。

年を取らない人はいませんし、死なない人もいません。どう老い、どう死ぬかを考えるのに早すぎることも遅すぎることもありません。

いま、介護保険がどうなっているのか?
私たちはこのままで無事に死ぬ(??)ことができるのでしょうか?

先代の園長、私の伯父は80歳になるまで卒園証書を渡していました。その最後の園長のあいさつ、

「私はこの卒園式を最後に、園長の仕事を終えます。
 私の胸の内をお察しいただけると、ありがたい」

泣きました。私。裏の方で。

保育観も子ども観も違う伯父でした。
保育の現場ではぶつかることも多かった伯父でした。
でも、伯父がいたからこそ、今、私はこの幼稚園で子どものなかにいて生きることができるのです。

ありがとう。おじチャン
(シミジミ・・・くすん)

さて、はて・・・
果たして私は80歳まで卒園証書を渡すことができるのかしら。。。。(ひとりごとです)


2009年8月のたみこさんの部屋

「 宮岸家の食卓 」

食卓を囲むのは全員そろうと5名!
パパとママ(私)と長女、長男、次女。
おだやかに、静かに、品よく食事はしたいもの。
みんな働いて、疲れて帰ってくるんですから。

ところが、
食べ物の取り合いは日常茶飯事。
夫が叫びます。
「食べ物でケンカするんじゃない!」
すると娘が叫びます。
「パパが人のこと考えないで食べまくるからだよ!」
「なんだとぉ〜!!」

やだやだ。話題を変えようと私が皆に今日あった子どもの心あたたまるエピソードを話し始めます。それぞれが感想やらをのべ、続いて長女が(在宅支援センター相談員)「利用者さんがネ」とお年寄りのあんなこと、こんなことをしゃべりはじめます。
時々父親がピントはずれのコメントをはさみ、みんなに 「パパ黙っててもいいよ!」と文句を言われ、続いて長男(現在特別養護老人ホームケアワーカー)が半分笑って、「今日は、おむつ交換、あけるたび、あけるたびヒットでさぁ」等と話します(そう、ご想像のとおり)
父親は、
「ダマレ! 食事中の話題じゃないだろ」
と怒鳴ります。
そんなこと、な〜んも感じない私、長女、次女がいっせいに、
「なに言ってんのパパ! 避けるような話じゃないでしょうが!」といさめ、続いて次女が(現在幼稚園のフリー教諭!)「あの子、面白かったよ〜」と、その子がいかに面白かったかについてエンエンと話し、みんな大笑いして、食事の時間は過ぎていきます。

時々はみな苦しいことやつらいことやらを打ち明けあい、
「大丈夫だよ。一生懸命やってるんだもん。利用者さんだってわかってくれるよ」
「そこらはきちんと職場で会議のときに出して話し合うべきだよ」
等、熱っぽく職員会議(?)が続くこともあります。
「食事中は話題を選べ!」
「夕食は楽しく一家団欒の時とすべし!」
派の父親もたまには、
「今日な・・被爆者の方々と話し合いがあってネ・・・」
と、おずおずと仕事場での話をしたりもします。

・・・重い!

確かに一日働いて、ちょっとはゆっくり食事して、なごみたいなぁ〜、と思わないでもありませんが、家族みんなが仕事を愛し、生きがいを持っている。
そこで出会う人たちを心から大切にしているからこそ、家族に向かう時は信頼して相談したり、聞いてもらいたがるのは当たり前ですよネ。
私も幼稚園の子どものことやらお母さんたちのことやらいろいろで頭がいっぱいで、娘や息子の利用者さんたちのことまで考えられないこともあるのです。
でも、必死で悩みなんとかしたいと時には涙を浮かべながら話しているのを聞くと、飲むのも食べるのも忘れて(??)話にのったりします。

そういえば、老人ホームでおむつ交換もていねいにこなす我が息子、時々
「いけねっ! ○○さんのお尻ふいたタオルもってきた!!」
(モ、モチロン洗ってはあるけどネ)
と言っているときがあります。
見慣れないタオルが洗濯機に放り込んであるし・・・・・・!!

このあいだ、さっぱりと顔を洗い、
「フゥ〜」とふいてからタオルを見ると、

ん、んんっ!?

家のじゃない!!

しばしボーゼン

自分の顔をふいたタオルを見つめる私。

 

 

 

・・・・・ま、いいか!!

 

息子よ、職場のタオルを持ってくるのはやめようよ。
たみこさん(家族からもこうよばれています、私)、
せめて、せめて顔洗う時は肩の力をぬいていたいんですけど。

 

2009年6月のたみこさんの部屋

「 ろくでなし 」

40年近く保育の仕事をしていると、
実にいろんな親子の出会いがあります。
昔、担任した男の子、Aのお父さんが亡くなったとの連絡を受けました。体調悪いのにずっと病院に行かないで・・・
見てもらった時はもう手のほどこしようがなかったらしい。

今は30をこえてお父さんとなっているその子を、保母として担任していたとき、
おれのヨメさん(その子の母)なんかわかんないけど、
 出て行っちゃったんだよネェ〜

と。
父子家庭でした。

でもお父さんは毎日元気にねんねこばんてん知ってる?赤ちゃんをおんぶしてその上に着るハンテンみたいなもの)で保育園に連れてきます。ニコニコと。
が、帰りのお迎えがいつもスリルとサスペンス。約束の時間になっても迎えに来ない、誰もいなくなった保育室で、だんだん心配になる頃、「すいませ〜ん」とゴキゲンで現れるお父さんは、プンプンとお酒のにおい。

センセ、悪いね!
 たまにはイッパイ飲まなきゃやってらんネェ!
 って気持ちになるのよ。
 A、ごめんな!

そう真っ赤な顔で言って、ニコニコとねこねこばんてんでハナウタをうたいながら自転車で帰ります。

Aが小学校の中学年ごろ、スーパーマーケットから出てくるのを見ました。ビニール袋を下げていて、てのひらの中のお金をじっと数えている姿でした。
生活する力に満ちた瞳をしていました。
2人で仲良く頑張って暮らしているんだなァ〜、と心の中で拍手をしました。

その後、縁がありパパとも連絡をとりあうようになると、
センセー! Aと魚釣りに行ったんだ!
 刺し身におろしてやるぜ!

と現れたり、友達のような父と息子はいつも仲良しに見えました。

でも世の中も親子の関係も単純ではありません。
Aは大きくなり、気立てのやさしい奥さんと結婚し、父となりました。元担任の私は嬉しくて、二人に会うチャンスがあったときは思わず、Aを抱きしめました。で、ねんねこばんてんの話を熱く語りました。

でも・・・その子が言うには、
オレ、おやじとは音信不通なんすよ・・・
とのこと。

そうだよネェ。
いつもニコニコ、明るい父子家庭
とはいくわけないよなぁ。

あまりしゃべらないその子を見ながら、
いろいろあったことを想像しました。

そして、数年たったある日、役所から「亡くなった」とその子のところに連絡が入ったそうです。どんな思いで死んでいったんだろう、息子に会いたかったろうに・・・と泣きました。

そのお父さん、若い頃歌声喫茶(あったのよ!そういうところが)で仕事していたことがあって、持ち歌は「ろくでなし」
私も聞かせてもらったことがありましたが、軽やかで、自分を歌っているような感じがおかしくって・・・。

♪  古いこの酒場で  たくさん飲んだから
古い思い出は  ボヤけてきたらしい  ♪

(作詞:S. Adamo/岩谷時子 作曲:S. Adamo)

 

あぁ、そんな遠くない日に天国(うん?地獄かな?)で再会するだろうから、また歌っておくれ!

 忘れられない親子
 の話でした。

 

2009年5月のたみこさんの部屋

「 もう、ママになった? 」

うーんと昔、私が実家の保育園で仕事をしていた頃のことです。

私の長女も同じ保育園に預けていました。200名からの子がいて、勿論担任は外れるので、ほとんど園内で顔をあわせることはないのですが、ほんのたまに出くわすこともありました。

会うと一瞬ハッとして、口を開けて私を見つめ、
泣こうかどうしようか、複雑な顔をして見ています。

すかさず私が、
今はママじゃないからね。今は先生だからね
とキッパリ。

ぐずりたい思いをぐっとこらえて、園児となって先生である私をなごり惜しそうに見ながら、離れていきます。

仕事を終えて迎えに行くと、娘は少し不安げに、でも期待に満ちた目で、
もう、ママになったの?」と聞きます。
うん! おまちどうさま。ママになりました
と言うと、はじめてホッとした顔を見せます。

今から考えたら、おっかなない顔をして「今はママじゃない!」と叫ぶ私のこと、あの娘はどう思ってたんだろう、と考えます。

そういえば(年長か年中の時の)担任の先生に、
あなたは、お家にいても先生なんじゃないのかな。お家に帰ったら存分に甘えられるママでいてあげていいんじゃないの?
と言われたことを、強烈な印象と共に思い出します。

確かにあの頃私自身、必死な時で、わが子を含めて子どもは全部仕事として見てしまったような気がします。

ですが、私のエライ(?)ところは、
そんな先輩保育者の助言に、
すなおにきちんと耳と心を傾けられるところです。

アッ、そうか。そうだったかもしれない・・・

と気づいた時のことを今もしっかり覚えています。

気の毒なのは長女で、
ママになったヨ」と言ってる時も、
なんだか気が抜けない状況で育ったみたいです。

そっかぁ〜
だからあんなオモシロイ大人になったのかァ〜
(いえいえ、とても良い子に育っているのです)

私が子育てしていた時は、子どもが病気になったり研修で夜でかけたりする時には、必ず「みててあげるよ!」というママ友達がいました。その人たちに支えられなければ、私は多分、仕事を続けられなかったと思います。

今はママ友達っていっても、なかなか複雑なモノがあるみたいで、人とうまく合わせることのみに必死にならざるを得ないお母さんもいるような気がします。
もし私が・・・・、と考えると、う〜ん、難しいだろうなぁ、と思います。
とりあえず人にどう思われるかな、とか、嫌われちゃったらどうしようかな、とは考えないようにします。

この間、園児が、友達と言い合いをしていて、
いやだって言えばよかったんだよ
と私がアドバイスしたら、
だって・・・イヤだって言ったら、もう遊んでくれなくなるかと思って・・・」と。

ええ!? 遊ぶってさ、遊んでもらうものじゃないんじゃない? 遊んであげるものでもないんじゃない? お互いいっしょに遊びたくって遊ぶんじゃないの?
と、また妙に理屈っぽく、ぐずぐず言ってしまった私。
くつろげる人と人との関係のなかで大きくなってほしいと願います。

わが子にとっては家でも保育園でも「先生」のママがいて、くつろぎの少ないザンネンな子ども時代だったかも!

もう十分過ぎるほど大人になった私のこどもに
私はママだよ
と言えるかなァ〜。


2009年4月のたみこさんの部屋

「 伝える ── 伝わる 」

新入児も少しずつ慣れてきたこの間のこと。
春の陽さしのなか、思い思いに遊ぶ子どもたち。

Aが私を見て、ほっぺをまっかにして寄ってきました。
見ると、砂場用のシャベルをしっかりとにぎっています。
そのシャベルをもう1人にぎってはなさない子もくっついてきます。

Aは本当に困った顔で、
たみこさん、Bがね、かして、も言わないでシャベルとろうとするんだよ
と訴えます。
そうか。Bちゃんがシャベル使いたいんだ。
 じゃあ『貸して』って言ってみようか

(Bは身体も小さく、言葉で伝えようとするには根気がいるところです。)
私がいっしょに「Aちゃん貸して」」と言ってみました。
Aは私がいっしょに言ったので、一瞬
これは・・・小さい子だし、貸して! とたみこさんが言ってるし私じゃないよ。私はシャベル使わないよここは貸さないとマズいかな??
という表情を見せました。
が、
すぐに、それはそれはやさしい声で、
アノネ、Bちゃん、ぼくネ、このシャベル、使ったばかりなの。後で、かしてあげるかもしれないけど、今はネ、ぼく、使いたいの・・・
と断りました。
「そっか! Aちゃんもう少しこのシャベル使いたいんだって・・・。じゃあ、Bちゃん、他になんかあるかどうか、たみこさんと探しに行こうか?
と言うと、うんとうなずいて納得し、つかんでいたシャベルから手をはなし、私の手をにぎってくれました。
ホッとしたAがかけ出していきます。


(行っといで!)

そしてしばらくすると新年長の女の子のCが、事務室に顔を出して、
ねぇ、ねぇ、たみこさん、Dちゃんね、いっしょに遊ぼうって言ったのに、他の子とあそんでるからダメだっていうの。
と浮かない顔。

私はその時、いそぎの書き物があって、やってしまいたくて・・・

職権濫用して、
よし! では話聞くからDを呼んできて!
あの言い方からして、言われたDは、
マズイ! たみこさんに怒られる
と、来ないか、さっさと遊びにその子を巻き込んでしまうんじゃないかな・・・と。それならこの書き物も終わらせられるし、それもありか・・・。

でも子どもってホント正直。

たみこさ〜ん、Dちゃん呼んできたよ〜
(やられた。来ちゃったか)
Cちゃん! Dにもう一度いっしょに遊ぼうって言ってみたら?
ねえDちゃん、いっしょに遊ぼう!
言われたDはちらりと私の顔を見て、
でもおだやかに話し始めました。
私ね、今ね、Eと遊んでるの。2人でね、遊びたいの。もう少しね、2人であそびたいの
そっかぁ〜
2人で遊んでいて、楽しくて、ちょっと他の子を入れたくない時ってあるかもしれないよなぁ。
Cちゃん、Dは今、別の子と2人で遊んでるのがいいみたいねぇ。じゃあどうしようか? Cは他の子と遊んで、まだDちゃんと遊びたいなぁと思ったら、しばらくしてまた声かけてみようか?
・・・うん。そうする
Cは、Dの話をじっと顔を見ながら聞いていて、そう答えました。
お互いにしっかりとうなずきあって、解散。

シャベルの時のAも、自分より幼い子だし、たみこさんも貸してと言ってるし、もしかしたらがまんして貸したほうがいいのかな、と思ったはず。でも意地悪でなく、本当の自分の気持ちを言ってみよう、そう思ったのでしょう。
2人だけの遊びを続けたかったDも、「入れて!」と言われて、入れてあげられない気持ちを素直に言ってみたのでしょう。

無理しておりこうさんになったり、やさしくしたり、ほめられようとしたりでなく、素直に自分の気持ちを相手に伝えてみること。
もちろん、子どもの集団のなかでは受け入れられずにお互いの気持ちをぶつけあうことの方が多いでしょう。
納得できない思いを、大人に説得されて、涙とともに思いをのみこむことも、あるでしょう。
でも!
本当の気持ちを素直に相手に伝えてみる、そしてそれが受け入れられるという経験もいっぱいして、人を信頼する心を育てていくんだよなぁ。
と、私は思いました。

たみこさんとしては、そばにこわ〜い存在(私のコト)があってもめげずに(?)自分の気持ちを伝えてくれたこの子たちのこと、好きだなぁと思います。

 

・・・なんだ、私ってそんなに恐がられてるワケじゃなかったのネ!

根はやさしいってこと、みんな知ってくれてるんだ!

う・・うれしぃ(涙)


2009年3月のたみこさんの部屋

「りんどうの会」

西小岩幼稚園で毎月第4土曜日に、お年寄りのためのちいさなデイケアが開かれていることを知っているヒトは少ないかも。それは「江戸川認知症の人と家族の会りんどう」というところがやっています。

私はその会の書記長(?!)です。

今から20年以上も前のこと。

先代の園長である私の伯父が、私が園で仕事しているのに私のところに行く!と言って出かけて帰ってこなかったり、迷子になって転び、工事の人に病院に連れて行ってもらったりという行動が多くなり、どうしたものかと、その頃保健所主催の「呆けの方の介護について」の集まりに出席していました。

実父母や義父母を介護している方達。
その頃は「呆け」ということで、恐がられていても今ほど認められておらず、みんな困り果てていました。専門家のお医者様が家族に深く心を寄り添わせて話してくれたこと、忘れられません。

その勉強会をきっかけに、そこに集まった人たちでいわゆる「呆け老人を抱える家族の会」を作ろうということになりました。
みんな苦しくて、どうしたらいいかわからなくて、グチを言いあうだけで少し目の前が明るくなる気がしました。

会はお花の名前を付けることにして、ばらは派手すぎ、あじさいはかれんすぎ、さくらは?ゆりは?等々大騒ぎ。いっそのこと「ぼけの花」にする?と笑って、秋にできた会なので、「りんどうの会」となりました。

保健所等で月に1回家族の会の例会をやり続け、当初の会長の義父も、副会長の実母も、会計の義母も、そして私の伯父も亡くなりましたが、みな会員を辞めることはありませんでした。
西小岩幼稚園へと会場は変わり、家族の会というよりも実際その時に介護しているお年寄りと共に集いお茶を飲んだり昼食会をしたりの、いわゆるデイケアを続けています。

 元気に歌う

みんなでいっせいに何かをするということはありません。
みんなばらばら、
散歩したり、
ずっとおしゃべりしたり、
好き放題。
そこがゆるくてぼんやりと心地良いのです。
会には実父の看取りを終えた歌手もいて、
ピアノを弾いてみんなで歌ったりもします。

りんどうの歌姫

気がつけば20年!!
家族の会、デイケアのスタッフ(のつもり)の私たち自身が「どうやって老いるか、どうやって死ぬか」等をかなり熱心に話し合っています。お年寄りをみてきた(つもりの)私たち自身がこの会を続けていくなかで、どう生きるかをずっと考えてきたような気もしています。

私は毎月「通信りんどう」の担当で書いています。
20年×12ヵ月・・・240回!
先日、大忙しの中「園だより」と「通信」を同じ日に書いて、わけがわからなくなってしまい、会長に怒られました

こどもと老人をいっしょにするんじゃない!

年長「まつ」
年中「ばら」
年少「すみれ」
は基本。加えて、
「たんぽぽ」(預かり保育)
「ちゅうりっぷ」(未就園児クラス)
「ひまわり」(小学生の遊ぶ日)

と並び、ただでさえ、
たんぽぽじゃない、ひまわりじゃない・・・ちゅうりっぷ!
などと混乱して叫んでいるこの私。

ぜひのぞいてみて下さい。
ええっと・・・・「りんどう」を!


2009年2月のたみこさんの部屋

「こらえられない!!」

ほんのたまに、テレビ局等から取材させてくださいとの連絡が入ります。

藤田さんがらみだと、たいそう熱心に何度も何度も幼稚園に足を運び、藤田さんのお話しに取材する側の方も感動し、子どもとふれあい、子どもが藤田さんのお話しで笑ったりびっくりしたり楽しむのと同じように楽しみ、取材が終わる頃には、「お互い人間を大切にして生きていこうネっ!!」と肩をたたきあうように別れるくらいになるのです。

先日のこと。

こちら○テレビの○○番組です。取材させていただきたいのですが・・・
と電話がかかってきました。
お父さん、お母さんにゴメンナサイを言ってくれる子いませんか? 大人が聞いて笑っちゃうようなゴメンナサイを言ってくれるような子を教えてくださいませんか・・・

うちには、そこらの大人が聞いて笑うようなコジャレたコトを言う子はいませんよ。泥団子が上手につくれたり、コマ回しがうまい!という子はいっぱいいますけれど。

・・・・では、また連絡します

何日かたったある日、またそのテレビ局から、
○○番組ですが、そちらの園で・・・
とはじまりました。
今度は「ゴメンナサイ」以外にも、
あの子とあの子がラブラブだとかいう子はいませんか?

そんなん、いません!

じゃあ、ですねえ、こんなことができてスゴイ! というような子はいませんか

だから泥団子とか、コマ回しとか(まだ言ってる)ができる子はいますよ。泥団子なんてつるピカよ。20年はもつのよ。園の宝よ!

ア〜、そうですか。他にカッコイイ、という子いませんか?

そうネェ、そうだ!こんなのどう?電動車椅子を上手に動かして、園庭をかけ回る子はいるよ。かっこいいですよ。先生が怒ることがあって追いかけようとすると、つかまらないようにさっさと逃げ回る姿なんてかっこいいよ!こんなステキな年少さんなら紹介できるよ。ほかの子なんかうっとりあこがれの目で見てますもんネ。ステキでしょ?

テレビ屋さん、しばし沈黙。

そして、

では、また連絡します・・・

そして結局、連絡はそれっきりきませんでした。
その担当者に伝わることはないんだということが、
よくわかりました。

まるで壁に向かっているようでした。

このひとが西幼に来て、いろんな子に会って、
もしかして、何かを感じてくれるかもしれない・・・
な〜んて、実はちょっと思っちゃったこと、
パパ! ママ! 
かくしてて「ゴメンナサイ

でもやっぱり私もいい大人なんだから、
「笑ってこらえ」れば、いいのにネェ。

 


2009年1月のたみこさんの部屋

「父の寝言」

昨年94歳で亡くなった父は、基本的に病院嫌いで、病院に入院したりすると病気になると言っていました。
従って「家で死ぬ」と宣言しその通りになりました。
兄夫婦をはじめとして周りの者は大変でしたが、みんなで父の望みにそって、覚悟をしての介護でした。

ある日、どうも調子が良くないという情報で、私が泊まり込んだ夜のことです。
(父は自分の子どもにも気をつかう人なので、
 私が泊まっているということはヒミツです。)
その夜は何事もなくすぎていきそうでした。

が、突然父のへやから大きな声が聞こえて、私は飛び起きました。

「みなさん! 今日はおめでとう!
 本当に良かった。お父さんもお母さんも、
 どんなに喜んでいることか!
 大きくなったみんなの姿を嬉しく嬉しく見ています。
 みなさんはこれから保育園でなく学校にいきます。

(・・・ハハァ〜。卒園式のときの園長のあいさつだぁ)

 朝は起きること!
 朝起きて、学校へ行くこと、それが大事です。
 まずは朝は起きて学校に行きましょう。
 お父さんお母さんは、それが一番の安心です。
 今日は本当におめでとう!」

いつも園長として父が子どもたちに語りかける時の、笑いを含んだしっかりはっきりした口調です。

もうほとんど寝たきりの状態で、テレビを見たり、新聞を見たりがせいぜいで、私のことも自分の妹や母になったりすることもあって、自分の亡くなった兄弟の名前を言い言いして「生きてるか? 死んだか?」と聞くのがいつもの会話となっていました。

そんな父がこんなにもしっかりと卒園のあいさつを寝言で・・・。

聞きながら私は泣きました。

戦後すぐに保育園を建て、60年以上、保育園の上(3階が住居)で子どもたちの笑い声やざわめきを聞きながら死ぬことを望み、実現した父の最後の「園長あいさつ」でした。

ところで私も時々夢で子どもに向かって

「コンチワ!!」

とあいさつして、ニッコリ笑って目が覚めることがあります。
寝ながら笑うってなんだか不思議な感覚ですよ。

やれるものなら一度やってみてください。

 

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