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2011年12月のたみこさんの部屋


〜 園児の母 という愉快な仲間たち 〜

ギャァ〜!!

クリスマス集会のお母さん方の劇が上演されたときのこと。
ものすご〜く怖い、大ブタの登場です。

つぼみ組も、すみれ組も、震え上がっていました。

だいじょーぶ! だいじょーぶ!
たみこさんと、あの大ブタ、どっちが強いと思ってんの!?

そう言って、泣く子をだっこしながらの私たち大人は、
大ブタから目を離せない、大爆笑がとまらない。
面白すぎて、はっきり言って子供たちは二の次。
笑った笑った。

ここ西小岩幼稚園には、父母会があります。

そして、その中に、園文庫の係の人がいて、私が若い頃(!!)集めた本をもとにして、文庫ができ、「よみきかせ」や本の貸しだしなどをしています。

上記の劇も「文庫」のしわざ。

そして、自分のできる好きな楽器を持ち寄り、練習してときどき子供たちに聞かせてくれる「ママ音」があり、「ゴスペル」集団もあります。
人の声の美しさに泣きそうになる時もあります。
さらには、「ダンス部」もあり、かわいらしい(?)衣装に身を包み、AKBさながらに踊ったり・・・。

そして私が好きなのは、
そのママたちの背中に小さな赤ちゃんがおんぶされていたりするのです。
歌い踊るママの背中でグラングランゆれながらびっくりしている赤ちゃんたちの顔ったらありません。

この幼稚園だって、ママたちのトラブルはあります。
無視されたり、いじめられた感をいだいた人もきっといます。
人と人とが集まるところでは、
たしかにいろんなことがあるでしょう。

父母会という集まりの中で、何を大切にしていくのかを、何度もぶつかり合いのなかで、泣いて笑って話し合って、少しずつ少しずつお互いがお互いを認め合うことも学んでいます。

ずっと前のことです。
あるお母さんの家のポストに、

幼稚園に来るな! ブス!

みたいな事が書かれてある封筒が投げ込まれた事があります。
そのお母さんは泣きながら、

なんで? だれが?

???

わからない。

わからない・・・。

誰かに嫌な思いをさせただろうか。
子供に何か危険がおよぶことはないだろうか?と。

大変な混乱のなかで、私と毎日のように話しました。
正直、悲しかったです。
犯人を捜す事も考えましたが、やめました。
ひたすら、そのお母さんに寄り添い、話を聞き、嫌な思いを共感しました。
その間に、他につらい苦しい思いを抱いているママたちがいないかを、職員全体で感じよう、と努力しました。

「悪口」の原因は全て分からずじまいでした。
そんなことがあったことを、他のママたちはいっさい知らずにすぎました。書かれたママは幼稚園を信頼してくださり、嫌な噂ひとつ流される事はありませんでした。

別れのときに、そのママの旦那さんが、

妻の相談に乗り続けてくれて、ありがとう

と言ってくださった言葉が、救いでした。
結局何もできなかった・・・。

そしてそんな嫌な事を書かずにいられなかった、もう一人のその人を、抱きしめてあげる事もできなかった。。。

お母さん方は、いろんな行事のお手伝いをしてくださいます。
きれいごとばかりでなく、いろんなことがあるでしょう。
でも、いつも言ってくれるのは、

「楽しくなきゃね。 楽しく、楽しくね。」

大変だね。疲れるでしょう?

と父母会の役員さんに声を掛けると、

ゼンゼン! 子供のためとか言ってるけど、
私が楽しいんだもん!

と。

そういえば、震災の時の支援物資すぐに山のように集めてくれたね。そういえば、脱原発の署名もたくさ集めてくれたね。

生命を生み、生命を育てる、母、
そして私たち今年もしっかり手をにぎり合おうね。

 

 ━━━ 幼稚園、お母さんたちの集まり ━━━

・父母会(このなかに、係としての文庫)

・自主サークル
 「ママ音」
  (自分の好きな楽器を持ち寄って演奏。時には営業に行く)
 「ゴスペル」
  (園またはちかくのコミュニティセンターで練習)
 「ダンス部」
  (メンバー、練習場、衣装不明! 女の子たち大よろこび)

・「はっけよいの会」(障がいを持つ子の親の会)
  おしゃべり、相談、園のためのいろんな物作り

 


2011年11月のたみこさんの部屋


〜 素敵な「表彰式」 〜

私こと「たみこさん」は、先日、
「区政功労者」として表彰されました!!

当日、私のことだから式に行くのを忘れそうで忘れそうで、チョー怖くて手に書いたりしてました。

「式」
 って。

そして当日、福島からきてくれている子を送りがてら、タワーホールに行ってきました。
そして、この間の木曜日「江戸川広報」に写真がのったのです!

幸か不幸か、
私は広報の出た日は研修で園にはいなかったのですが・・・。

まず、大きな花束をもって卒園児のお母さんがお祝いにかけつけてくれました!
そして、何人ものお母さんが「広報みました!」とおたより帳に書いてくれました。
「私たちも嬉しいです!誇らしいです・・・」なんて書いてくれちゃったりして・・・(涙)

駅に置いてある広報をなぜか何枚ももって来ちゃいましたという人、
事務室に「貼ってください!」と広報をもって来てくれた人もいて、純子さんはあわててそれでも掲示板に紅白の画びょうで気持ちをこめて、貼り出したということです。

(こっぱずかしいから、ワタシその上からすぐ別のポスター貼りましたけどネ)

子供たちも家で話になったらしく、
「たみこさん、新聞に出てたよ!!」と、息せき切って言いに来てくれたり、年少さんの子が朝、必死で通園バッグから何かをだそうとジタバタ・・・

なにを出そうとしているんだろうと見ると、
それも「広報!」でした。

なんだかわからないけど、ママが持たせたのでしょうか?
ようやくバッグから取り出して、小さな手で「広報」をかかげている子に、まわりの大人たちは爆笑、というひと幕もありました。

ところで、あの写真の話をひとつ。
私がまんまん中に座っているんですよネ。

ハガキをくださった卒園児の親が、
「たみこさんを囲む会」みたいです!
って書いてあって(冷や汗)
あ〜。やっぱりちょっとまずかったかな・・・って。

あの写真は広報用であの前に区長さんが、
あの席に座っていらしたのです。

私はその時はもちろん根がつつましいから、
スミッコ、ハジッコにこっそりと立って写りました。

で、

区長さんが「あとは皆さんで」とお立ちになったところに、
「では、あなたどうぞ」と動きやすそうな私に声をかけたのです。
「イエイエ。私などは」とか
「他の方どうぞ」などとよくやっているアレが嫌いな私は、

「そうすか?」

とヒョコヒョコ真ん中に座ってしまったというわけです。
かなりインパクトあったあしく、
みんなに「真ん中にいた!」と言われます。
やっぱり、遠慮した方が良かったのかも知れないですぅ〜。

それにしてもです。

皆さんからこんあに喜んでいただけるおのだったとは、正直思っていなかったのです。
ただ長く仕事をしていただけ、お母さん方や子供たちの支えと励ましがあったればこそ・・・と、心底思っている私。

この表彰を喜んでくださったみんな!

ほんとうに、ありがとう!

・・・そうそう、
広報写真の出た次の日、机の上に、
あの写真の私の顔を切り取った(!)カンバッジが置いてあったのです。

お母さん手作りのカンバッジ・・・。
(どうせ〜っちゅぅんだ!?)
広報の写真はうすれても、このカンバッジは色あせない・・・。

そうだっ!

私はたぶん、仕事中エプロンつけたまま死ぬだろうから、
お棺に入るときの衣装もエプロンでたのむ。
そのとき、
この手作りカンバッジ、エプロンにつけてもらおう!

そうだ!

そうしよう!

みなさん、本当に、ありがとう。

大好きです。

 


2011年10月のたみこさんの部屋


〜 見る目 〜

ちょうど3年前の夜。
「ピンポーン」

インターホンで対応すると、きれいな女の人がなにか言っています。
でもなぜか何をおっしゃってるのかよく聞き取れず、

今行きます

と門を開けて話を聞くべく、お会いしました。

その方は中国の方で、日本に来て数年。
その間に結婚して、男の子をひとり出産した。
その子がもうすぐ年少になる歳である。
そこでこの幼稚園に入園できるか!?
という(ちょっと言葉おかしいですか・・・?)
ことでした。

もちろん、

できますよ

と話していくと、どうも話が見えない。はっきりしない。
何度もなんども聞き直しながらわかったことは、

結婚して男の子を産んだその後、しばらくしたら、夫である男性が自分に暴力をふるうようになった。
それがどんどんエスカレートして、お医者さんにいくほどのケガも負わされ、どうにもこうにもがまんできなくなって、ついに家を出た。

その時こどもを連れ出すのに失敗してしまった。

今は離れて暮らしているが、弁護士を頼んで裁判中で、 その裁判のときに、幼稚園に入園できるという証明書(?)があれば、ありがたい。
その証明書を出してほしい。

そんなことでした。

お母さんは、ほっそりと美しい人ですが、
なんとも切なそうでさびしそうな・・・。

それっぽいことを書いたものをお渡しして、お母さんは帰りました。

ただ、その後連絡がなかなかなく、入園手続きにもいらっしゃらなくて、クラスに入れていいものやら、悪いものやら・・・。
その年の夏、その方の弁護士さんが、
裁判はうまくいっています。もうすぐ母親が引き取れることになりますので、もうすこし待ってください
とご連絡くださいました。

・・・良かった!
DV父さんから、その子をとりもどせる!
クラスはどちらにしよう・・・。
など、みんなで話していましたが、
結局その後またなんの連絡もなく月日がたち、
私はお聞きしていた携帯に電話をしてみました。

ママは電話をもらったことを、きちんとありがとうと言ってくださって、裁判ではお母さんが子どもを引き取れることになったので、弁護士が引き取りに行っても「居ない!」とつっぱねられること数回!

本当に困った、と泣きそうでした。

きっと、きっと取り返していっしょに暮らす、そのことだけを望みに仕事をしている・・・と。

私は、

頑張れ! 取り戻そう!

と励ました、その後も半年に一度電話しあったり ・・・いつもそのDV男とその母(!)が子どもをどこかにかくすか移すか、するらしい。

暴力をこどもが受けていないかが本当に心配だと、いてもたってもいられんたい、といった感じの話でした。

なんだかあまりにも時間が経ちすぎて、すこし忘れてしまうくらいの先日、ママから電話がありました。

結局、その子を連れてそのDV男は行方をくらました、ということ。
弁護士や警察が捜しているけれどもまるでつかめない。

むずかしいかもしれない

と言われたらしく、でもママは、

私はあきらめない・・・。あきらめない!

どうしてあげたらいいのでしょう。
なんとか探し出して、無事を確認したいよね、とお互いに何度も話し合いました。

その子って・・・
いま、年長さんになっているハズ。
もうすぐ卒園か!?

あぁ〜あ。
本当に「すみれ、ばら、まつ」とここで笑って笑ってあそんで大きくなってるはずの、そのまだ見たこともない子に、胸がいっぱいになりました。
坊主っくりで、目のぱっちりしたかわいい男の子のイメージが、私にはありました。

その悲しげな美しいママに、私、きいたことがあります。

お母さん、あなた、なんだって暴力ふるうような男と結婚なんかしたんだろう?

ママは、ちょっと苦笑いして言いました。

・・・最初は、本当に優しかったヨ。
 暴力ふるう人なんて、まるで思わなかったヨ・・・

満開のキンモクセイ

まったくねえ。
見る目がないんだよねぇ。
わが園の職員の恋話(コイバナ、と言います。今どきのコトバ)にも、時々、そんな話が出ることがあります。

私は言ってやります。

アンタら! 全く見る目がないんだ!! 今度みつけたら、つれておいで!! たみこさんがちゃんとみてあげるから。 私がヨシ!とハンコ押した人じゃなきゃダメ! 全く見る目がない!

そうどなりあげて、ヒョイと考えたら・・・。

そう
私だって、

なんだってこの人!?

という人(夫)がひとりいる。

ヤダヤダ。

私って見る目なかったヨ。

 


2011年9月のたみこさんの部屋


〜 最後の恋 〜

夏の盛りのあの日。

私は何十年かぶりで恋に落ちました。

それは放射線を測りに来てくださった科学者の先生。
ボランティアであちこち線量を測ってくださっているのです。

その日は、この園のほかにもう1ヵ所測定してから来るとのことでした。そこの園が思いのほか線量が高く、除染のことやらの相談もあり、時間がかかったようで、来てくださった時は、かなりお疲れのようでした。

(ゴメンね。私、人の歳ってわからない。ただ私よりは上。5歳上?10歳以上?ってことは・・・キャァ〜〜)

リュックをしょって、ペットボトルを持参でいらっしゃった先生は、うでや首のあちこちに、蚊に刺されたアトが、赤くはれあがっていました。
ゆっくり歩いて、それでも眼光するどく、あちこち指示してついには自ら線量計を持ちながら測っていってくださいました。

放射線が高ければ、土をけずることも考えていたし、ただただ不安で何日もよく眠れない状況にいた私は、先生の後をオロオロついて歩きました。

でも、線量は低かったのです。いっしょに測りに来てくださった方たちも、みんな少しホッとして、緊張がほどけていきました。
私はようやく先生の虫さされのために、薬をとりにいき、ぬらせてもらったり、

アレ? 先生、蚊は若い人が好きで刺すみたいだけど・・・

などと言ったりして。

線量は園庭まん中、草の方、すみっこ、砂場、などなど細かく測りまわりました。最後に室内もということで、室内を測り(0.07マイクロシーベルト)「大丈夫!」となりました。

ここで私は心からほっとして、そばにいた人に、
「私、本当に心配だったの〜。夜も眠れなかったし、福島の子のこと考えても辛いしで、落ち込みすぎてたの〜」
と、泣きそうになって訴えたりしました。

そうしたら、それまではゆっくりゆっくりと動きながら計測して、
ほとんど口もきかない先生が、私を見て、

あとは精神的な被害に慰謝料でももらいましょうね

と、ニッコリ笑い、あたたかく話しかけてくれたのです。

ガ〜〜ン!

この時、私はまちがいなく恋に落ちました!

「あなたも大変だったねぇ」

と、私を思いやる先生の気持ちが伝わって、
私はもっと泣きそうになったのでした。
いろんな科学者がいて、原発や放射線についてもいろいろなことを言います。私たちはなにが真実なのかを自ら学び、見つけていかねばなりません。

福島の中学生の女の子が、

私たちは大人になって、結婚できますか?
 子どもが産めますか?

と東電や政府の人に聞きました。

30年たったら、どうなのかがわかるのでしょうか。

この不安をかかえて生きていくのでしょうか。

未だに時として、落ち込みが強くなっている私ですが、
あの先生の姿や言葉、あの先生が存在するということに心から支えられています。
これはやはり恋だったと思います。

 

多分、私の最後の恋。

 

 


2011年8月のたみこさんの部屋


〜 手をとり合って泣きました 〜

福島の原発事故から、子どもたちのためにと、とりあえず葛西のホテルへと避難して来ていらっしゃるお母さんが、夏期保育に子どもたちをつれてあそびに来てくださいました。

楽しくはしゃいでプールあそびに夢中の子どもたちを見守るお母さんに、少し話を聞かせていただきました。

でも・・
なにが聞けるでしょう。

お父さんは仕事のために福島で、
お母さんと子どもは葛西のビジネスホテルでと、
家族はバラバラにひきさかれ、狭いホテルの部屋で、
毎日どう過ごされているのでしょう。

体調だって崩れます。
この先がどうなるのかはっきりわからないという不安も大きく。

そばにいて、そんな話を聞くことしかできない私。
9月になっても迎えに行くし、
ぜひ幼稚園にきてと話しました。

じゃあお弁当はコンビニのおにぎりでもいいですか?
とママ。

 

そうか!

 

ホテルだもの。

 

すきにお料理することもできないのですよね。

では、お弁当は職員で順番に作りましょう。
子どもは日々大きくなります。洋服だって、靴だって・・・
サイズを細かく出して、幼稚園のお母さんたちにお願いのおたよりを出しました。

そしたら、次の日から続々と物が届きはじめました。

 

ありがたいです。

 

原発のことを考えると、どんどん気持ちがお落ち込み続ける私は、ずっと考えていました。

そう、
やっぱり起きてしまったことは起きてしまったこと。

だとしたら、この先、
どうしたら子どもが安心して大きくなれるのか、
やれることをやる。

そしてなにより、
この子たちがそれでもしっかりと生きていくことを、
その力をつけていくことをする。

 

それがやっぱり私の仕事だと思いました。

 

ここには、いっしょに力を合わせるよ!というお母さんたちがいます。
同じ思いで仕事する仲間がいます。
おちこんでる場合じゃないんだと、また、自分へと確認する夏。

福島からいらしているお母さんと、しっかり手をとり合って泣いたけど、涙はふくことにしました。

 


2011年6月のたみこさんの部屋


〜 里子だったあの子 〜

 

以前、私は里親になったことがあるのです。

 

子どもの状況は厳しい。
虐待その他で児童相談所から養護施設に預けられる子の多いこと・・・。
その施設も満ぱいで・・・。

私の家は子どもたちも大きくなったし、なんとか預かって育てる手助けができるかもと、家族で話をしました。

話がすすむと東京都から審査が入ります。

家族全員が集められ、里親になることの意思を聞かれます。
そして相談所でその子に会い、2回ほど慣れるための面会、外出をして、正式にお預かりという順です。

その子は母親のアルコール、そして母親の再婚相手によるその子の姉への性的虐待のなかで暮らしていた3歳の男の子。
ぜんそくがあるとは聞いていましたが、児童相談所での間は発作はなく「大丈夫」とのこと。一応吸入の器具やらを持ち、その子は我が家にやってきました。

区にお願いして幼稚園に入園し、たんぽぽをして、土日や長期休みはお母さん方や職員を巻き込んで、どこに遊びに行くかを計画し、みんなが、みんなが、その子のため、その子の笑顔のために全力で動きました。

園をあげ、
家族をあげ、
その子の楽しいと思える日々を・・・。
(その頃、手を差し伸べてくれた全ての人、ありがとう!)

ところが!

その子は我が家に来て間もなく、
ぜんそくの発作をおこすようになったのです。

発作がおきると病院に連れていかねばなりません。

それは夕食のとき、朝、仕事を始めようとするとき、いつおこるか分からない発作です。

なんでもないときはきれいなかわいい声で窓から外を見ては

ママ〜。はやく迎えに来てネェ〜
 みんなのしあわせのためにねェ〜

と歌うように言っていました。

疲れの出はじめた私が、皮肉を込めて教えた言葉です。
(本人はママとは言わず、おネエチャンのことを話してくれていましたが)
夜は私のふとんに寝かせて、毎晩、絵本を読みました。

たみこさん、あの本読んで!
たみこさん、もう1冊読んで!

あの声が未だに聞こえます。

でも私には仕事があります。
たびたび病院に連れていき、時には入院することも。
家族も誰が病院に連れていくかで言い合いもあり、
みんなで笑うことも少なくなり、
いつまた発作がくるかとビクビクする時間が多くなって来ました。

そしてまたおきた、大発作。入院。

私は決意するしかありませんでした。
都の係の人に連絡をとり、涙ながらに話し、入院している間にその子をかえすことにしたのです。
回復して退院するときは、お母さんが迎えにくること、と決め、それまでの間、私は毎日病院に行き、休みの日は(外出もできたので)大好きなバスや電車に乗り、好きなものを食べ、眠りにつくまで病院で一緒にすごしました。

かえすことを決めている私にとって、
その日々は、本当につらいものでした。
仕事を終えて病院に行くと、
となりのベッドの子のお母さんが、

たみこさん? ず〜っとよんでいましたよ・・・

ママが迎えにくるんだから、と自分に良い聞かせながらも、私はその子の行く末が気になって気になって、いっそのこと、仕事も辞めて離婚してその子と2人で暮らすか!とさえ思いました。

(し、仕事を辞める!?)

そして退院の日、
病院に最後の手続きに行きました。
いつもいる部屋に、もうその子の姿はなく、看護婦さんが、

ママと東京都の人が迎えに来ましたよ。
でも、泣いてました。。。
たみこさ〜ん、たみこさ〜ん。って

私はオイオイ泣きました。

涙が止まりませんでした。

なんでこうなったんだろう。児童相談所の人も、預けたら預けっぱなしはひどいよ、ぜんそくだってこんなにひどいって、聞いてないよ、と、私は泣き続けました。

登録した里親に自信をすっかりなくして、

私は里親を辞退しました。

私のタンスのなかには、その子が着ていたトレーナーがまだ入っています。 タンスを開けるたび、「元気でいる?」「笑ってる?」と話しかけています。

いま、震災で多くの子が親を亡くしました。

 

私は何をしているの・・・?

 

と、タンスを開けるたびに、問われます。

 


2011年5月のたみこさんの部屋


〜 信 頼 〜

おさいふを落とした。

現金も入っていたけど、カード類、免許証、保険証、全部だ!
青くなったあと、止められるカードを止めて、じっくり思い出してみると、落とした場所は、わかった!

なんと、

園のまん前、しかも、その5分後に通った人もあらわれた。

それなのに、おさいふは消えた。

消えた。

門の前に落としたのははっきりしてるのになぁ。
せめて、カード類や免許証は、返してほしいよなぁ。

落ち込んだ。

それから、
カードの再発行への長い日々が続く・・・・。
免許証もないので手続きは複雑だった。

ボンヤリしてるから

しっかりしないと

いつかやると思った

など、ささやく声が聞こえる中で、涙をこらえて諸手続きをこなした。

近くの信用金庫では、再発行にウンザリしながら行った私にむかって、ニッコリ美しい笑顔のお姉さんが、

アラァ〜こんにちは! 今日はキャンペーンで女性のお客様に特別、キャンディーとり放題のサービスがありま〜す! ど〜ぞ!

と、穴ぼこの開いたボックスを目の前に、続いてイヤも応もなく、おたまを渡された。
おたまを穴ぼこに入れてキャンディーをすくうらしい。

ひきつる笑顔で言われるままにおたまでキャンディーを。

アラァ〜、たくさんとれましたネェ〜。
サ〜、もう一回!

 

・・・もういいんです。十分です。

言えない私。

キャンディーを5、6個手に、トボトボ次のカード再発行へと向う私でした。
もう笑うっきゃないです。

入園して1ヵ月、この新乳児たちの「信頼」はどうだろう。
ママでも家の人でもない、幼稚園で出会った、大人である担任や私たちへむけられる圧倒的にまっすぐなまなざし。
これが信頼でなくてなんだろう。

ママ! ママ!」と泣きながら、担任の胸にすがりつく子、背中にしがみついて、なんとかしておんぶの形をとり続ける子。

ここ幼稚園での子どもと大人の姿を見ているのが好き。

精いっぱいの大声で泣きさけんでいる子のそばで、「そうか、そうか。」と慰めなら顔は笑っちゃってる職員を見るのが好き。
よばれてもないのにそばに行って、「そりゃぁ、ママがいいよネ。ママがいいにきまってるよネェ〜」などと、余計な口出しをするのが好き。

もしかしたら・・・

私のおさいふ届けてくれる人がいるかも
というあわい期待は消えた。

おさいふやカードをなくしたくらいで、
オロオロする私にも出会った。

大丈夫なのか私。

おさいふひろった人へ

かえしてください!

読んでくれた人へ

お金とカードは別々に保管しましょう!
(苦笑)

 


2011年4月のたみこさんの部屋


〜 くにこちゃん 〜

昔、中学の同級生のなかに「くにこちゃん」がいました。

服装や髪型がいっそう暗い印象を与えるその子は、みんながおおさわぎしている時もじっと席についたまま目を開けようともしません。
私はその子が笑った顔を見たことがありません。

私は遊んだり、暴れたりの日々のなか、遠くにいるその子に心を寄せることもなく。

ある時、校外学習の班分け「好きな人どーし」と、キャッキャと班決めをしていると、先生が「くにこちゃんは、どこに入る?」とみんなに声をかけました。

男子と女子に別れていたので、男子は

オイラは知んねぇ〜

女子達も一瞬、
ウン?
とお互いに顔を見合わせるだけ・・・。

くにこちゃんは重たげな黒い髪で顔をかくし、
うつむいていました。

楽しい遠足なのに、くにこちゃんかぁ〜

みんなのなかで、ビミョーな雰囲気が・・・。

そして多少「しゃぁないなァ」という気分で私と同じ班になりました。
(「くにこちゃん! 同じ班になろうよ!」と最初から言って上げられなかった私。重い髪の下のくにこちゃんの赤い顔を思い出します。)

クラスメイトの誰がどんな思いですごしているのかと思いを寄せる暇なく、笑って、さわいで、遊んでいた私です。できることなら、暗いもの、さびしいもの、つらいこと、苦しいこと、そこらの嫌なことすべてから離れて、私は光のなかにいたかった。

気が向いて、たまに、くにこちゃんに話しかけたり、かばったりするのも、
いっそう私のまわりの明るさを感じさせるだけ。。。

桜の花

そして、

しばらくたった夜、

くにこちゃんは、家で農薬を飲んで死にました。

私たちクラスメイトは、どこか、とんでもなくびっくりしたままお通夜に行きました。
写真で見るくにこちゃんは、やっぱり暗い目をして私たちを見ていました。

・・・農薬?

死ぬ?

・・・どう考えて、どう感じているのか、自分でも分からない私に、大きな泣き声が聞こえてきました。

庭に停めてあった小型トラックの前に、おでこをゴンゴンぶつけながら、誰かが泣いていました。
ワァ〜ワァ〜という泣き声の近くで、作業服姿のお父さんが、困ったように立ち尽くしていて。
(あの時、泣いていたのは、私だったの?)

ぼんやりと時がたって、担任から手紙が届きました。

くにこちゃんは義理の母親に育てられたこと、
彼女はその人からひどい虐待をうけていたこと、
そして、
くにこちゃんは自分に公平に接してくれる担任の家に逃げていったそうです。

その夜も、くにこちゃんは先生の所に逃げました。
(助けて! と言いに。)

先生は、その夜もくにこちゃんの話をきき、慰め、励まして、明日また学校で会おうね、とお家まで送って行ったそうです。

夜道を歩く先生と、くにこちゃんの姿が見えます。

くにこちゃんはきっとその道が永遠に続けばいいと願ったことでしょう。
決して家につかない道を歩いていると、思いたかったことでしょう。

家についてしまったくにこちゃんは、
そのまま物置にあった農薬を飲みました。

先生はきっと誰かに言いたかったのでしょう。

どうしてあの時、くにこちゃんを家に送っていってしまったんだろう、と・・・。

生徒である私に、そんな激しい後悔を書かなければならなかった気持ちも思います。

そして、何より、くにこちゃんの孤独と絶望を思います。
(先生が、誰かが、私が、どうして助けてあげなかったの!?)

その後、
18歳になった私は、大切な人を自死でなくしました。

告別式に行くのにつきあってくれた友人に向かい、
私の厳格な母が、
この人は、なんで・・・」と言いよどむ声のなかに、くにこちゃんもいたことを、今の私なら、わかります。

そして母も亡くなりました。

震災で亡くなった人と、
そ のまわりにいる幾万の人の慟哭が聞こえます。

それでも

「生きよう」

と、聞こえます。


2011年3月のたみこさんの部屋


〜 震 災 〜

自然の前ではなんとも無力な私たち、人間であることか。
そのことを思い知らされたこのたびの震災。
そして津波。
原発事故。

苦しく泥水の中で亡くなった本当にたくさんの方達、そして愛する人を失った多くの人たち。
こうして書くことも、なんとも苦しく、申し訳なくてなりません。

声をかけてくれた人がいて。
(あちこちが動き出す前のつなぎという救援物資)大急ぎで園に張り紙をしたら、朝それを見てお迎えのときにはもう車一台では入りきらない救援物資を持って来てくださったお母さん方。小さい子用の紙おむつを胸をつまらせながら何度か往復して運んで来てくれたり。

言葉に出さなくても、思いは同じです。
みんな、なにか言うと涙がこぼれそう。
ただ黙々と荷物を運びました。

そして終業式の日には、ママたちが
みんなのこと大好きだよ!愛してるよ!
の思いを込めて、演奏し、歌い、踊ってくれました。

被災したみんなの心と共にあるよ・・・と。
伝わるその思いに、職員はみんな泣きました。

 

私は、毎晩のように夢を見ます。

なんかしなくちゃ。

何をしたらいいのだろう、とクラクラゆれなが考えてしまいます。
すると、
この間とうとう幼稚園のホールを避難所に解放した夢を見ました。
ふとんのことや、ごはんのこと、
仲間と一緒にバタバタと働いていました。

そして私は舞台にのぼると、

チャーンチャーンチャラッチャッチャッチャ♪

サァ〜 みなさんごいっしょに!!

ハッと目が覚めたら、私は眠れなくて、ラジオを聞きながら寝ていたのです。
元気なラジオ体操の番組が・・・・。

 

沢山の苦しい方たちのためにも、私たちは現実を見すえなければなりません。
失われた、かけがえのない生命に、誓わなければならないことがあります。


2011年2月のたみこさんの部屋


〜 ホステス募集 〜

だれか、ぼくをひきとって下さい!

すっくと立ち上がったその子は、大きな声で話し初めました。

昔、私が年長を担任していた時やっていた「帰りの会」(今日一日、いやなことはなかったか、みんなに言っておくことはないか、などを話し合う会)のことです。

聞いていたみんなが、
えっ? はっ? ナニ?
とポカンとしていると
夜、ぼくのお父さんもお母さんも仕事です。ごはんを食べないこともあるし、困ります。だれかの家で、僕を育ててもらいたい、です!
とキッパリ!

聞いていた私ともう1人の担任(その頃は1クラス50名という人数で2人の担任、子どもが多すぎて、キツかったなぁ・・・・)は、さっそく家庭訪問へと飛び出しました。

そこは駅近く、ネオンまたたく花のキャバレーのビルの中のお宅らしい。

━━ キョロキョロしている私たちにむかって

ハ〜イ! ホステスに応募の方は、お2階で〜す

の声。

 

・・・・・・??

 

その子のお父さんとお母さんは、そのお店で仕事をしていたのです。
夜だったので2人とも忙しく、私たちはそのお店のオーナー・ママに話を聞いてもらいました。

ごはんはちゃんと食べているでしょうか?

ママはすご〜く嫌な顔をして、

この店で一応食べ物も扱ってます! 売るほどありますから、
子どもに食べることで不自由はさせていませんから!!

ハ、ハイ、ごもっともで・・・・

その後に、お母さんと話ができ、なんとか住まいも移りたいし、夜も子どもとすごせるようにしたい、など、など。

私たちは嬉しくて、
何でも応援するよ、
幼稚園から帰ってからの時間が楽しく安心できるものになるといいね。
できること手伝うからいっしょにがんばろうよ!
と。

そして、幼稚園近くに引っ越しをしてきて、
お母さんの仕事の時間も変わったようでした。

これで良かった!
ひと安心!

発表会では本当に堂々と、どんな役でも楽しそうに演じて、みんなから拍手喝采。大スターのその子に平和な時間がもどった、、と思いました。

無事卒園してしばらくたってのこと。

センセ!
と呼ぶ声にふりむくと・・・その子のお母さんです。
あらァ〜 久しぶり・・・元気にしているの?
と聞くと、
元気にしてます
とこたえてくれました。
会いたいなァ。
大きくなったよネェ〜
など話して、

お父さんも元気?

と聞くと

離婚しました」と。

ギャッ!!

ちょっと思ったのです。

ごはん食べさせろ、引っ越ししろ、夜はお母さん家にいろ・・など、ず〜っと言いつのり、決して引こうとしない担任2人。
お母さんは話に乗ってくれてたけれど、内心はどうだったんだろう。。。

お父さんは話し合いの途中から、なんか私たちに冷たかったよなァ。
引っ越ししてくれる頃からは、ほとんど私の目とか見なかったもんなァ〜。
おせっかいだったのかもしれない。
子どものためをふりかざしすぎたのかもしれない。

・・・などぐずぐずと考えます。

あの時、

家庭訪問やめて、

おとなしくホステスに応募して帰ってくれば、

良かったのかもしんない・・・

(30年も前の話です)

今はもうないそのお店の前を通るとき、
今でもちょっと、うつむいてしまう私です。


2011年1月のたみこさんの部屋


〜 ランドセル 〜

テレビからはランドセルの宣伝がさかんに流れていました。
「天使のはね」とか。

そして心やさしきタイガーマスクがプレゼントするのも、新一年生用のランドセルが主流。

イマドキのランドセルは黒と赤だけではないのですよネ。

パステルカラーのピンクや水色なんてあるんですから、びっくりです。

そんなランドセルをしょって、ピカピカの一年生となって小学校にあがる、希望にみちあふれた年長さんたち!

で、でも今年は、1月も下旬になるこの時に、まだ学校が決まらない、という子もいるんです。

そう。

いわゆる障がいを持っている子たち。
幼稚園ではみんなといっしょになんでもやってきました。
それが当たり前と思っています。

でも、就学となると・・・。

支援学校か、支援学級か、普通学級か・・・。

左にまひのある車いすの子が、学校に話しに行ったとき、
養護の先生が、
給食当番のときは、どうすればいいのですか?
掃除当番のときは、どうすればいいのですか?
と、ママに聞いてきたそうです。

そういうことって、学級の中で、仲間たちと先生たちで考えることではないのですか?

別の日(何度も呼ばれるのです)の面接では、
知らない人ばかりのなかで、がんばって面接を受けて、ようやく終わって、泣けてきた。

そうしたら、

「泣いた。泣いたから困る!」と、もう一度体験するようにと言われたそうです。

(いったい何度やらせれば気がすむんじゃい。

もういいです。あきらめます。

というのを待っとんのかい!!

・・・ついつい、
良家の子女の私もヤンキーになってしまう。)

こうして、悩み迷いしている話を聞いている私は、
怒ったり泣いたり、本当に自分について行けない・・・。
子どもを育てるという教育の場にいる人の心が、
見えない。通じ合わない。

歯ぎしりする思いに押しつぶされそうな、
弱っちい、ヘナチョコな私。

障がいを持っているから決まらない学校。
受け入れをそれとなく、もしくははっきり拒否される子。
うまれて生きていく、ここでの試練は、やはり苦しい。

 

支援学校ではランドセルは使わないのです。

 

学校にするか学級にするか、まだ決まらないでいるママと子ども。
お店のランドセル売り場のスペースが少しずつ狭くなっていくのを、ドキドキしながら見ているのです。
買えるのか、使わないのか、ランドセルしょった姿はついにみられないのか・・。
など思いながらたたずむランドセル売り場。

テレビのコマーシャルでは
ランドセルの色は自分で選びたいの!
と叫んでいるかわいい女の子のこちら側に、
ランドセルを買うかどうか、自分で選びたいの!
と心で叫んでいるママと子どもがいます。

色とりどりのランドセルをまっすぐには見られない。

みんな希望に胸膨らませて、
大きなランドセルに夢いっぱい詰め込んで、
ピカピカの一年生として巣立ってほしい!

私たちは、いつだって、どこまでも、みんなを応援しているよ。
みんなが笑っているように、
楽しく過ごしているようにと、
ずっと願っているよ。

 

先日の「はっけよいの会」(西小岩幼稚園 障がいを持つ子の親の会)では、誰よりも、私が落ち込んでいて、怒りくるっていて、会員さんたちに、
まぁまぁ、あちらもお仕事なんだから
などひたすら励まされ、なだめられていたこおとを、ココに白状します。

(やっぱ、年かなぁ〜。 すご〜く、コタエます。)

 

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