たみこさんの部屋

2012年1月

〜 担任 ただいま休憩(職)中につき 〜

年長担任のひとりが心身のバランスを崩しました。

どうやら、うつっぽいと感じた私は、クリニックに一緒に行きました。

休んで薬を飲んで、様子を見よう

と、ドクターが言いました。
彼は子どもが大好きで大好きで、一生懸命に仕事する、とてもピュアな人です。職場の私たちはみんな、彼の優しさにいつも影響を受けつつ支えられてきました。

本人は年長のこんな大事な時に・・・と、
自分が仕事できない事を自分で許せなくて、見るのも気の毒なほど苦しんでいました。

ゆっくり・・・
少しずつだよ

などと言っても、彼の中には子どもたちがいて、いつも呼びかけるので、 それにこたえよう、こたえたいと、居ても立ってもいられないのです。
眠れない。食べられない。思うように仕事の出来ない苦しさで、のたうち回っているようでした。

・・・時には職場の同僚も巻き込んで、心配をかける日々も。

ただ、この職場のすごさは、
なんでもいいよ。あなたがいること、あなたといた時間、あなたの子どもとその親たちへの思いが、どんなに深いか知っているよ。今はとにかく、休んで!
ずっと待つから、安心して

の、この一点から、いっさいぶれないのです。

眠れない彼が、夜中に事務室にずっといて、子どもの写真を見つめ続けて、朝、子どもが来る前にそっと帰るという事もありました。

(ドクターや私は休めというけど・・・
 子どもと離れているのは、つらいのです)

そして保護者の皆さんはというと、途中担任休職という事態に文句を言うどころか、涙を流して気づかい、手紙を書き、
ゆっくり休んでください。あなたはずっと担任だよ」と。
そして、ときどきやってくる彼に対して、プレッシャーひとつかけることなく、おだやかで自然なつながりを持ち続けてくれています。

(母たちだけでなく、お父さんもよりそってくれて、時には関わり続けている私の疲れにまで気を遣ってくれたりして・・・)

そんなクラスに、途中から代理担任として入った職員も、そのむずかしい立場を、いつもみんなで考え合おう。たしかめ合おうと心を配り、クラスを守り、彼が来た時には「担任」としてしっかり受け入れつつ、子どもには責任を持つという立場を貫いています。

もちろんきれいごとばかりではありません。

大変な職場だからこそ、ひとりひとりがいろんな意見を持ち、いろんな思いのなかでぶつかり合うこともないわけではありません。
ぐずぐずした思いをさらけ出すことを恐れないということかもしれません。

調子を崩した人を
「支える、受け入れる」

このことのゆらぎはありません。(!)
そこが強い、と思いました。
その強さが、子どもたちを伸ばし支える力となっているのだと・・・。

かく言う私も、何度かの受診同行や、波が襲ってきた時の彼の気持ちに、夜中でも仕事中でも、応えようとすると、時にはどうしようもうなく気疲れして、泣いた事もありました。

(コレを「鬼の目にも涙」といいます。)

この担任は、一生懸命仕事をして、子どもを愛しきり、お母さん方へも気持ちを寄り添わせようと、必死で走り続け、息ぎれして、疲れてしまったのですから。

そして、子どもたち・・・。

これがステキ!

時々来る彼に、「きた、きた!」とだれかが見つけ、まとわりつき、からみつき、「あそぼう!」の連呼はとまらない。
薬のせいもあり、疲れやすい彼が、
ちょっと、かくれんぼ
などと事務室へ休みにくると、
ねえー、ねえぇ〜」と、連れ出そうとします。でも、そのうち、
コイツ、眠いみたい
おきたらへや来いヨ」的な感じで、離れていくのです。

そばで仕事をしている私は、時々ニヤニヤ笑い、

ほれ、ほれ、少しは休ませてあげてよ

もう少ししたらおきるってサ

など、のんびり声をかけます。
この時の感じが、とても好き。

photo

 

そして彼は、心から安心して、
眠るのです。

 

 

業者や知らない人は、眠っている彼を見て、ギョッとなりますが、事務室に出入りする沢山の父母会のお母さん方や職員は、まるで気にもとめません。西小岩幼稚園の、ふつうの風景となっています。。。

 

もうすぐ卒園のときです。

卒園児も、

この休憩中の人も、

出会えてとってもうれしかったよ。

ありがとね。

 

 

それと、
ちょっと休憩したい人たちへ告ぐ!
いつでも休みに来てください。
できたら毛布くらいもってきて。
園には赤ちゃん用おふとんしかないからね〜。

 

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2012年2月

〜 夜中に豆を煮る 〜

私の母はずっと仕事をしていたし、家族の食事づくりに情熱をかたむけるような人ではなかった・・・。
従って、「母の味」というのを思い出すことはない。
それでも、ときどき「気分転換」のつもりだろうか。
愛読書の「婦人之友」の料理のページを広げ、手伝ってくれる人を集め(?)
台所じゅうで大さわぎをして、つくることがたまにあったかも。

あと、お正月のとき「黒豆」を煮ていたような。
いや、
あれは黒豆が好きだと言っただけかしら。
とりあえず、私の中で母と黒豆はつながっている。
(ちなみに私は黒豆のなかのまっ赤なチョロギが好き!)

が、

しかし、

けれども・・・。

「黒豆を煮る」なんて、 そんな、
そら恐ろしい事が私にできるはずがあるだろうか?

イヤ

決してありはしない。
(文法か!?)

やれ、つや良く、やれ、ふっくらと、やれ、しわなく、、、、

ムリムリ! 一生ムリ!

自分、豆なんて、一生煮ないっス!
と思ってきました。

それが、なにかで読んだか聞いたかしたんです。
「とにかく豆なんざ、味付けた水に一晩つけおいて、あとは時間のある時に、やわかくなるまでずっと煮ればいいのよ!」と。

エ〜っ!?

もしかしたら、それなら私でもできるかもしれない・・・。
おそるおそる煮てみました。
味付けについては、いろんな考えを総動員して、なんとか黒豆煮らしきものが完成!

しわも寄ってるし、つやもない、けど、とりあえず、黒豆でした。
家族もそれなりに喜んで食べてくれました。

 

そして

私はめざめたのです。

「豆を煮る」という作業のその甘美さに!!

 

コトコトコトコト

いつまでも煮るのです。
時間がなければ火を止め、
また煮られる時に火をつければいい。

楽ちん!!

 

夜中、家族が寝静まった頃、私は、鍋を見つめ豆を煮ます。
アクをすくいすくいしながら、いろんなことを思います。

今日のあの子の様子、あれはただのだだこねじゃないよなァ〜。なんか気づいてほしかったのかも・・・

あの子のお母さん、この頃元気なのかなァ。会えたら声かけしてみよう

あのクラスの散歩は、いっしょに行きたいなァ〜

やだ! また先生たちあれ準備するの忘れてるじゃない!
 毎年の事なのに。
 なんだって思い出す人がひとりもいないんだろう!?
 ホントにどいつもこいつもおバカばっかり、よくも集まったもんだ!

などなど・・・。

お鍋を見つめながら、
コトコトコトコト。

いま、コレを書きながらも煮ています。
だし昆布を小さく切って、大豆といっしょに入れ、おしょう油だけの味つけ。
「大豆のしょう油煮」
です。

キャァ〜!

かっこいい私!

よっ!

料理上手!

まつさん、もうすぐ卒園。
大きくなったね。
たみこさんは、いつも、みんなのこと思っているよ。
昼間だけじゃないよ。
夜中も豆を煮ながら、思っているよ。

では、

そろそろお豆の様子を見に行かないと〜♪

 

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2012年4月

〜 もっと歌を! もっと声を 〜

3月16日、61回めの卒園式が終わりました。

あたたかな、いい卒園式だったね、と言ってくださる人もいて、本当に良かった。

今回の卒園式は、歌に満ちていました。

子どもの入場の時には、お母さん方と私たちの歌で迎えます。
いつもはこみあげる涙で声があんまり出なくて、せっかく歌で迎えたいと思っているのに・・・とくやしいのですが、今回は前もってお母さんに楽譜を渡しておいたので、練習してくださったのですね。
美しい歌声の中子どもたちは堂々と入場しました。

そして、
卒園式後の「おわかれ会」では、ホールでみんなで歌うのが最後の時。
私たち大人は、卒園児の歌を聴きます。
この歌がずっと終わりませんように、と願いながら、何曲も何曲も、歌ってもらいます。
そして、私たち職員も、子ども達へ、心を込めて歌いました。

♪一瞬の今を千秒にも生きて♪
(一瞬の今)

と。

会の最後は、お母さん達の歌でした。
思い思い、会場のその場にそのまま立って、子どもと手をつないだり、顔を見合わせて笑い合ったり、それはそれはくつろいだあたたかな歌声でした。

美しい、美しい歌声でした。

子どもが大好きな歌を、お母さん達もいいなァと思い、歌いたいなァと思い、みんなでみんなで練習してくれたのでしょう。

このあいだ亡くなった、敬愛する林 光先生が、
歌は力を入れないで、天地を動かす事だってできるよ。
と、おっしゃいました。

卒園したあの子たちは、ずっと大切な歌を胸に歌い続けてくれることでしょう。

もっと歌を。

もっと声を。

 

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2012年5月

〜 白木蓮 〜

亡くなった父は、木蓮の花が好きでした。
白い木蓮を「ビャクモクレン」とよんでいました。

10年も前になります。
いい木蓮が咲くよ〜
という植木屋のおばさんを信じ園庭のすみに植えました。
あいにく陽の当たらない場所でした。

・・・・で。

咲きませんでした・・・。

 

何年たっても咲きません。
いつしか木蓮の木がある事さえ忘れそうでした。

(でも、用務の人は、あきらめずに卵のからやお米のとぎ汁などをあげていたらしい)

そして10年が過ぎた今年。
震災、原発事故から1年の今年。
ついに咲いたのです!
真っ白な花びらの、あの、「白木蓮」

photo

4年前、木蓮の咲く頃、卒園に向けて準備を進めている時のこと。
電話がありました。
卒園児のお母さんからでした。

久しぶり〜。 高校生だよねぇ
と私。

すると、

先生、Sが、昨日亡くなりました。

えっ!?

その場に座り込んだ私が聞いたのは、高校に入って、運動部で活躍していたSが、病におかされ、闘病の末に亡くなった事。

入園したその時のSは、一瞬もじっとしていない、エネルギーにあふれた男の子でした。
お母さんはふたりのお姉チャンを育て、
「男の子って、なんでこんなに動き回るの?」
と笑いながらため息をつくくらいの、元気な、元気な子。

卒園してからも、
よく幼稚園に現れ、事務室で仕事している職員のまわりを、
ボールを蹴りながらグルグル回り、

遊ぼうよ〜

と、ずっと言っている、
そんなかわいいかわいいSでした。

つらい、苦しい告別式には、Sが在園していた頃の職員と行きました。
開場の内も外も、階段まで、制服を着た高校の仲間で埋め尽くされていました。

Sの仲間はこんなにたくさんいて、
みんなSとの別れを納得できないのです。
幼稚園でいっしょだった親子も何人も来ていて・・・・。

お別れのとき、
私は、書いてきたSへの手紙を入れてもいいものかどうか、ちょっと迷いました。
Sは美しく、大きく成長し、そこに横たわっていて、これが現実とはどうしても思えないのでした。
ぼう然とする私が目を上げると、少し離れた場所に立っていたお母さんと目が合い、うなずいて下さいました。

読んでね、S。 すぐに、また会えるよ。

運動会ではこの幼稚園、60年くらい前(?)の「旗体操」を、まだやっています。

古い・・・。
あまりに古すぎ。

でも、子供が思い思いにつくる旗を上げたり下げたりする「旗体操」は、なんだか人気なのです。
その旗を下におろす動作を「S〜」と言いながらやるのが、Sの在園中に、はやりました。

言うな、Sって言うな〜!!

と怒るSを尻目に、みんなで、面白くて楽しくて、「S〜」と、青空のもと声をそろえる時の、あの、なんという晴れやかさ・・・。

Sが卒園した後も、みんなでクスクスわらいながら、やっていました。

そして、
いなくなった年から、
運動会での旗体操は、職員とは、ことさら目を合わさなくなりました。
涙をあふれさせながら動いているのが、わかっていますから。

告別式の最後に、Sのお父さんが、

人の生命のはかなさを思います

とおっしゃいました。
そう。だからこそ、どこまでも生命は尊い。

今年も元気な新入児が入りました。

来年もきっと、咲くはず。

木蓮の花。

 

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2012年6月

〜 ぼくは、ぼくだよ! 〜

毎朝「おはよう、たみこさん!
と声をかけてくれる年長のYくん。
その日も、事務室に入ってきて、元気に「おはよう!」と・・・・

ギョッ!

どうしたの? その顔は?

鼻の頭から、サ〜っとすりむいた傷が・・・。

おうちの近くであそんでてね、高いところから転んでね、すりむいちゃったの・・・
あらあら、痛かったね。手をつけないわけでもあったのかしら。今度は上手に転ぼうね

などと話していると、事務室のドアを開けて、二人の男の子が

キャア〜 おばけ〜

と叫んで、すぐに閉めて走って行きました。

ん? なんだ?

すると、すりむいたYが

ボクのことだよ。ボクの顔見て言ってるんだよ・・・

なにぃ〜!!

そばにいた担任が、
「おへやでも、Yを見てはケラケラ笑っておばけって言ってて、なんだか気になったのだけど・・・」と。

やだ! 放っておけない。 話がある。 ちょっと連れてくるか!?
と息巻く私を見て、同じクラスの子が、

○○と△△だよ。オレ、連れてくる! つかまえるの得意だから!

と飛び出して行く。
たしかに捕まえるのは得意だったらしく、すぐ二人は事務所にやってきました。

誰がおばけだって? Yは転んで顔すりむいたんだよね。
 痛かったと思うよ。
 それをおばけみたいって笑ってるのって、どういうこと!?
 言われたYはどんな気持ちだと思う?

などなど、クドクド・・・・・。

しまった!

という顔の二人は、

ゴメン・・・・

Yは素直に
いいよ
それを聞いて、
すぐにいいよって言わないで、ちゃんと言ってやれば?
と私。

するとYは、つかつかと二人の前に近づいていくと、

アノネ、ボクは、おばけじゃないよ。Yだよ・・・

静かに、でも、しっかりとした口調で、そう言ったのでした。

そう。
どんなに顔をすりむこうと、どうなったって、

ボクは、ボク!

悪気が無いのはわかってるよ。
朝のあいさつ代わりのおふざけなのも、わかってるよ。
でもね・・・。

と、しつこい担任と私は、
「ジロジロ見ないで」という本を探し出して、子どもと読むことにした朝でした。

PHOTO

 

以前、アペルト症の子が在園していました。
普通に幼稚園に通わせたいというお母さんの思いに、私も同感でした。

「見学にいらっしゃい」
とお呼びした時のこと。
お母さんと話しながら、その子は園庭で少し遊びました。
そこへ、居残っていた園児の一人が近づいてきて、その子をじっと見つめました。

その顔をじぃっと、じぃっと見つめて一言。
・・・こわい」と言ったのです。

ママは静かに、「こわくないよ・・・」と。
私も「こわくないよ。友達だよ

自分たちとちがう顔つきを見たら、「?」と思うし、「オヤ?」って思うのは仕方ない。
怒ることでもないよなぁ〜

そしてアペルト症の子は、西小岩幼稚園の子になりました。
クラスの子も、他の子もみんな、その子が大好きで、その子はいつも楽しそうにみんなと過ごし、卒園しました。

「こわい」という子は、だれもいませんでした。

子ども達が帰るとき、コース別に門の前に並びます。
私がみんなの前に立って「さようなら」と言うのです。
そのときに、いつもその子が、私を見つけてかけ寄ってきます。
そして、私と手をつなぎ、並んで「さようなら」をするのです。
時々、おむかえの時間がずれたりすると、二人で近所を歩きます。
どんなに辛いことがあっても、その子と手をつないでいると、私の心は静かに、穏やかになるのを感じました。

あぁ。
なつかしいなぁ〜

ボクは、ボクだよ

そう。

私も、私です。

 

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2012年8月

〜 まつさん、プークに行く 〜

昔、新宿なんてほとんど庭。
銀座の「みゆき族」って知ってる?

あれは私のこった!(どや? きいてびっくりでしょが?)

そんな私がなんということでしょう。
もう何十年も、新宿に足を向けるのは年にたったの1回。
年長さんとプーク人形劇場に行く時だけ。

いやぁ〜。

人は変わるもんです。どうしても百貨店に行かなきゃならないときは、
都心とは逆の松戸「伊勢丹」柏「高島屋」だもんねぇ。
錦糸町から向こうはなるべく避けたい・・・・。

そして先日、まつさんと新宿へ出かけました。
プーク人形劇場は南口をまっすぐ歩きます。
平日だというのに人混みが・・・。

子ども達は、駅の混雑にもめげずに、とっとと歩きます。
迷子になる子はだれひとりとしていません。
前後を見て感じ、集中して歩く力は、すみれ、ばらのときに、じっくりとつけました。

今回のプークで、いっしょだったのが、聾学校の幼稚部の子ども達でした。お芝居の説明を手話でしますからと、最初にお話があり、
そうですか
と返事をしたのですが、いざ席について手話が始まると、わがまつ組は、アングリと大口をあけ、目を見開き、手話で話している人を、穴があくほど見る!見る!見る!

そりゃそうでしょう。

初めて手話で話す人を見たらば

なんだぁ〜?!

と思うのは当然のことです。

私はあわてて、話が終わった頃をみて、まつさんの前で、
あのね、あれはね、手でお話してるのよ
と説明をしましたが、トイレに行っている子もいたりで・・・
みんなにきちんと伝えたいと考えて、劇場の人にコーディネートを頼みました。

では、お互い自己紹介しあうということで
と。

あちらは「耳が聞こえないので、お話ができません。それで、手話ということで、手でお話をしています」と紹介してくださいました。

お友達は、手話でよろしくお願いしますとあいさつしてくれました。

 

人形劇は、ステキでした。

大人がお互いわけなくうらんだり、こわがったりしている、
となりの山のたぬきときつねの家族。
友達になりたい子ども達が、ちえをしぼって大人も巻き込んで、
あったかな、支え合うつながりをつくる、という話。

終わったとたんに、
うわぁ〜 面白っかたよ!
と席からとびおりるように私に言ってくれた子もいて、
大人も子どもも大満足でした。

 

やっぱりプークって深い! ステキ!
歌舞伎町には行かないけれど、新宿プークには行く!

聾学校の先生にありがとうの手話を教えてもらって、
まつさんは帰りました。

新宿の人ごみの信号待ちで、人形劇の余いんもあって、

ねぇ〜、この子達、しあわせだねぇ

とつぶやいてしまった私。

本当、幸せだと思いますよ

とちかチャン。

でも、あれだね・・・。
 子どもたちもだけど、
 その子ども達といっしょにいられる私たちが幸せだよねぇ

と深くうなずきあったのでした。

 

さて、

 

元 銀座みゆき族の私が都心新宿に出かけて行くのは、

 

やっぱり、1年後です。

 

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2012年9月

〜 豚時計 〜

私が子どもだったころ、我が家には鳩時計がずっとありました。
びっくりしたような顔をした鳩が、ポッポ〜、ポッポ〜と時を告げていました。

今、我が家には・・・。
豚時計が。

電池一本で足をぶらぶらしながら、
ずいぶん長い間、ごきげんに動いていました。

が・・・。
とうとう止まった。

10年、いやいや、20年は動いていたよね。
この時計を見上げるのがまったく普通になっているのに。
だいたいこの時計って・・・・どこからきたんだったかしら?

 

そうそう、
我が家の娘がそのむかし、元カレからプレゼントしてもらったものだった・・・。

高価なものではないけれど、愛着は強い。
なんとか動かないかといろいろやってみる。電池を取り替え、足をそっとつついて動かしてみる。じっと見つめる。

よし。動いている。

いいぞ。いいぞ。

・・・で、目を離していると、止まっている。

位置をビミョーに動かしてみたり、
フッフッ、とホコリをふきとばしてみたり。
何度も何度もチャレンジする。
もうダメかと半分観念すると、突如動き出したりして、なんともあきらめがつかない。

娘はケロリと、
もう、古いからねぇ〜
と、いかにも素っ気ない。

・・・そういえば、私の冬用のパジャマは、また別の頃の元カレのパパが娘にプレゼントしてくれたものだ。
趣味が合わないとかで、私に回ってきた。
これもずいぶんと昔のものだけど、上等(?)らしく、
何年着てもビクともしない。

そうだ。そうだ。
そういえば夏のパジャマは息子の元カノが
ママに!(私のコト)
とプレゼントしてくれたものだっけ。

なんだなんだ!?

子どもの元カノや元カレが私にどう関わりがあるっていうんだ!?

40年以上必死で仕事してきて、パジャマくらい自分で好きなものを着たいと思う私は・・・

 

 

まちがっているか!?

 

 

やだ〜・・・こんな人生

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結局、ずいぶん頑張ったけど、豚時計は今や時計とは言えない。
全く止まることはないけど、自分勝手に時をきざんでいる。
ごくごくまれに、奇跡のように時が合うことがある。
すごく、幸せな気持ちになる。

 

西小岩幼稚園を訪れる人が、たまに言ってくれる。

この幼稚園は時間がゆっくりと流れているような気がする・・・

と。

私たちは、子どもをせかさない、追い立てない。
じっくりと子どもに向き合う。
そして、子どもが自ら伸びようとする、その時を待つ・・・。
いつでもそばにいて、手を差し伸べる心をもって。

 

いいね。

この豚時計。

好きに時刻を刻んでいて・・・。

と。

私は、とても寛大だ。

 

ついでに、パジャマはしばらく買い替える予定はない。
元カレや元カノの幸せをはるか遠くから祈りつつ、
これからも、ありがたく着させていただく。

・・・母は軽く切ない。

 

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2012年10月

〜 眠れぬ夜の 202号室 〜

眠れない夜に、いろんなことを思い出します。
年をとって、もうすぐ死ぬであろう私は、一体なにをしてきたんだろう・・・と。
ぐずぐずと。

私が実家の保育園で仕事していた頃のこと。
だからう〜んと昔のコト。

3歳と4歳の年子の兄弟が、休みがちになりました。
何か事情があるのかなと、行ってみることにしました。
線路際の鉄の階段を、カンコンのぼった202号室。
ピンポンしても出てこない。名前を呼んでも、トントンとノックしても。

・・・でもなにか、居る気がする。

ドアの向こうで笑いをこらえて、

息をつめている2人の小さな男の子を感じる・・・。
帰るに帰れず、
○○くん! △△ちゃん!」と、
台所らしき窓をたたいてみる。

どのくらいの時間、そうしていただろう。
チェッ、しょうががねぇなぁ〜
という顔をしたお父さんが、窓ガラスだけをちょこっと開けて、
顔を出してくれました。

2つの小さな頭が、笑いながらピョコピョコ飛び上がってはこちらを確認している。
(・・・うれしそうだ)
不機嫌なそのお父さんからようやく聞き出したのは、
なんと、ママがむずかしい病気になり、入院しているということ。
病因のことや子供のこと、家事・・・。
なんだか、仕事も休みがちになって、
ついでに子ども達を保育園に送って行く気にもなれない、と。

クスクス笑っては飛び上がり続ける2人の幼い男の子のこの父は、
もうなにもかもめんどくさい!
ほっといてほしい!
という感じで、目も合わせてくれない。

・・・どうしてあげたらいいのだろう。

送り迎えをする。家事や食事作りも手伝うし、
なんでもするから、お父さんは仕事に行ったらどうか、と言ってみた。
でも、お父さんは、仕事に行く気力はない。
家の中に他人が入るのはイヤだ。ときっぱり!

仕方なく、では、いつでもなんでも言ってね。
子ども達は、部屋の中にとじこもってばかりでは、大きく育たないんだから、そのことだけは、どうか考えて、と言って帰るしかなかった。

大家さんや役所から情報を集めてみると、
お母さんは、やはり治療の難しい血液の病気であるらしいことがわかった。
お見舞いに行くと、病室のママは、窓の方を向いてベッドに座り、私にチラッと視線を投げただけで、すぐに窓の外に目を向けてしまった。

気になっているであろう子どものことを話し、
私たちは全力で支えるから、どうぞ病気と闘おうよ・・・
と話してみるが、ママの視線も表情も、ゆらぎもしません。
ママにはなにも見えていないよう。
私のことももちろん、夫のことも、我が子のことすら見えてはいないような。

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ほどなく、ママは亡くなりました。
お父さんは相変わらず、子ども達とアパートに引きこもることが多く、
私はお父さんに、何でも力になるからと声をかけ続けるしかなく・・・。

ある日、我が家を訪れたお父さん。
そのお父さんが言うことには・・・(さの言うことには)
仕事に行く気になかなかなれない。 だからお金がない。よってお金を貸して!と。
一時しのぎだろうが、しっかりしろ、だろうが・・・

とりあえず、

誰か断れる人いますか!?
いたら手を挙げてください。

そう。 保育園も役所も、周りの人も、そして私も。
なんとか支えたいとは思っても・・・。
若い夫婦が幼い子をかかえて保育園に入れ、 一生懸命働いて暮らしていた毎日のなか、 とんでもない母の病。

もぉ〜やんなっちゃう、

と、

私だって思います。

なるようになれと人生を投げ出したくもなるでしょう。
ほっといてくれ〜
と叫ぶのも当然。

お母さんも、なにがなんだかわからないまま、
死んでしまったのではないでしょうか。
あの眼差しを思うと、切ない。

その父と子は、そのうち、いなくなってしまいました。
台所の窓からピョコピョコ頭を出していた2人の男の子も、
多分、もう、いいおっさんになっていることでしょう。

眠れぬ夜に、いろんな親子のことを思い出し思い出ししては、
寝がえりをうち続ける私に、安らかな眠りが訪れる日は、あるのだろうか・・・。

それはやっぱ、

永遠の眠りにつく日かもしんない。。。

 

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2012年11月

〜 予報は、晴れ! 〜

運動会は2年ぶりに晴れました!

また雨だったらどうしよう!?

2年連続雨だった今の年長さん。

今年くらいは青空の下思いっきり楽しんでほしい!

降りませんように。。。

降るな!

毎日天気予報を見続ける日々。
予報は、晴れ! 
でも、
油断はできない・・・。

うちには「雨女」と言われている人もいることだし、
そうだ!
遠く九州に引っ越した元職員のM先生。
あの人は自他ともに認める「晴れ女」だ!
あの人に相談だ!

M先生は宮崎に引っ越ししてもなにかと相談に乗ってくれている大切な人。

〜 あの、原発事故のとき、金町浄水場の水の放射線量が高い!とのニュースが流れ、私は即、青くなって、車を出してもらって遠くまで水を求めて走りました。
いくら走っても、どこにも水は売っていませんでした。
手に入れたのは、せいぜい2リットルのペットボトル1本。

これじゃあどうしようもない。

私はM先生に連絡してしまいました。

水がない。水が欲しい

するとM先生は、ご主人と二人、親戚も巻き込んですぐに近くのスーパーから、遠くのスーパーから、並んでくれたのでした。
お一人様1本なので買っては並び、1度家に帰ってから一休み。
しばらくして、「さ、行こう」と、また水を求めて並んでくれていたのでした。

春の日差しが明るく降り注ぐ郊外のスーパーで、
たみこさん! 水、送りますからね。
 送ったら、またお父さんと並んできますからね。

とのやさしい声に、
私は電話を持ったまま、ホッとして、ありがたくて、
思わず泣きました。

あのときの思いは、水も飲ませられない。
恐怖(今でも福島の子たちは・・・)といっしょに忘れられないのです。

あの頃、放射線の影響を受けないあちこちの人が、
この幼稚園に水を送ってくれていたのです。

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運動会・・・雨にしたくないの
と私はM先生に訴えました。
「そうか。よし。予定を見て、行けたら行くね。
 私はそっちの雨女より、きっと晴れ度が強いから」
それでも、宮崎から来てもらうのもしのびないなぁ、
と思っていたら・・・。
来てくれました!
そして、晴れました!

子どもたちは、満面の笑顔でした。
青い空に、お母さんやお父さんの歓声がひびいて、幸せでした。

楽しい運動会でした。
楽しい一日でした。
子どもたちが、ぐんと大きくなった運動会でした。

それにしても、
私は、いつまで天気予報を見続けて生きていくんだろう?

今度の遠足は?

バザーは?

 

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2012年12月

〜 人間だもの −おやじの会・会長− 〜

私が保育園で仕事していたときのこと。
幼稚園と違って保育園は両親とも働いているので、父親の協力は不可欠です。
送迎からはじまって、行事への参加もほぼ平等に行われなければなりません。
ねんねこで、おんぶして送り迎えするパパは、保育者に人気があったりします。

なかでも、いつもニコニコと(自分の子だけでなく)誰かれとなく声をかけて遊んでくれたりするお父さんがいました。
ご夫婦ともに小学校の先生で、忙しいのに保育園にもとても協力的で、まさに理想のカップル、理想のパパ!

うらやまし〜!

とみんなアコガレました。

私も子どもが同年齢ということもあり、家族ぐるみで仲良くさせてもらっていました。

そのパパが、

「お母さんたちばかり集まっては、なんやかや先生たちとも楽しそうにやっている!ここはひとつ、おやじたちも会をつくって、まずは・・・飲もうじゃないか!」

と言い出してくれました。

忙しいママが少しでも楽になるように、オイラたちも協力するぜ!
との意気込みが感じられて、とても嬉しく力強かったのです。
そして、「おやじの会」はいろんな行事へ参加、協力してくれるようになりました。

その原動力は、行事終了ごとに行われる居酒屋での「大反省会」。
いつも夜中までワイワイと楽しかった・・・との情報でした。
おやじ達が嫁のグチや仕事のグチを言いあって、最後には肩を組んで、大声で歌ってしめくくる、それはそれは愉快な宴会だったようです。

会長はいつもその会の中心にいて笑っていました。

ある日の夕方、お互いに仕事帰りに会長の妻(私にとっては娘と仲良しの友達のママ)と出会いました。
いつもとちょっと違う様子で呼び止められて、立ち話をし始めました・・・。

「夫(会長)がどうも同じ職場(小学校)の
 同僚(の先生)とつき合っているようだ」

えっ!?

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え?
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え????

聞いてみると、家に帰ってきてもなんだかソワソワと落ち着かない。
電話がくるとそそくさと出かける。
あまりにおかしいので問いつめると、白状した。
あちら(女の人)も家庭があるようで、仕事はちゃんとしているし、離婚して一緒になるというのではないらしい・・・。
が、妻としてはこの状態はとても耐えがたい。と。

青ざめて元気の無いその人の話をずっと聞いていました。

「電話が来て、出て行こうとしたら、行かないで、と言うの?」

「ウン。言うの。
 でも、ちょっと苦しそうな顔をして、やっぱり行ってしまうの。」

「その女の人が、もうやめた!と言ってくれれば、終わるのかな?」

「彼女がどんなつもりでパパとつき合ってるのか、よくわからないの・・・」

どんなに話しても、それはどうしようもなくぐるぐると回り続け、途方に暮れるだけ。

2人でじっと立ちつくすしかない夕暮れのあの時。

あの風のにおいまで覚えている気がする。

それから、おやじの会はみるみる力を失いました。
大反省会の大宴会で真っ赤な顔をして大笑いしている会長はもう見られなくなり、ママに聞くと、夜の電話でそそくさと出かけていくだけでなく、休日もほとんどいない・・・と。
できることなら仲良しの私にパパと話をしてもらえないかしら、とも言われました。
パパの本心を私になら話してくれるかもしれないから、と。

そのママは、やさしく子ぼんのうだったパパを嫌いになるのはむずかしい、と。

ゆれました。

いっそ、
会長のパパとその同僚の女の人を2人並べて打ち首にでもしてやろうか!?

いやいやとりあえずはグーでなぐってやろう!
そして「2人とも家庭に帰れ! 夫や妻のもとに帰れ!
 子どものところに帰りやがれ!」
と叫んでやるしかない!!

ヨシッ!やったろうじゃないか!!

が、しかし、けれども、で、できなかった。

「好きになっちゃったんだろうな」

というその一点がやはり、私にゲンコツをにぎらせなかった。

人間・・・人間だもの・・って相田みつをかっ!?

そして年月がたって、
その2人の離婚が成立したことを知った。

ある時、その娘さんとばったり会った。
「どうしてるの?」
話しかけようとしたけど、その子はかつての親友のママである私に美しく笑いかけて・・・無言で通り過ぎていった。

あ〜あ

やっぱり打ち首にしとけばよかったのかなぁ〜?

 

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