たみこさんの部屋

2014年1月

〜 トランプ占い − ラッキーセブン − 〜

2013年、みんな「今年こそは良い年にしたいね」と言い合う時です。

12月の終業式の後、子供達は、いつ覚えたのでしょう(ナマイキに・・・w)
「よいお年を〜!!」
などと元気に叫びながら手を振っていきました。

 

お正月を楽しみに待ったというのは・・・

いつ頃までだったでしょう?

 

昔、我が家では父親がお正月休みにトランプを出してきました。
おきまりのババ抜き、七並べ、そして、ダウト。
なかなか子供と向き合って遊ぶ時間を持てなかった父母でしたが、トランプを家族で楽しむあの感じは、胸にしみるように残っています。

母がはじけるように笑う声といっしょに。

そして、もうひとつ。
父がやっていた「トランプ占い」
1〜13まで黒と赤を交互につなげて、1回上る。
全部上ると「死ぬ」とまで言われている、なかなか難しい占いです。
私も苦労して覚えたものです。
その占いを「ラッキーセブン」と言いました。
7枚並べるというところからスタートするからでしょうか。
私も気に入って2年くらい前までは家族が寝静まったあと、1人でホワホワと占っていました。
1回上らないと寝ない!と、ひとりルールをつくって、なかなか上らないと泣きそうになって、もう1回だけ、もう1回だけ・・・と。

でも、もうこわくてやりません。

なにがこわいかって、占いを信じているわけではないのですが、
なにせ「ラッキーセブン」ですから。

父も母もいなくなりました。
そういえば、父は年をとり、園長を引退したあと、私が顔を見に行くと、事務机の前で、園長の時に仕事をしていたそのままの机の上に、トランプを並べていました。

 

一心に占っている丸い父の背中に陽が当たって・・・。

 

父は何を占っていたのだろう。

なにを願っていたのか。

「原発がなくなりますように 戦争がなくなりますように・・・。」

 

2014年2月

〜 そんな居酒屋で 〜

友達の少ない私にも、月に1回くらい会う高校時代からの友達がいます。

大昔の失恋も、裏切りも、み〜んな知ってる。
こわい友達。でも家族。

夜はなかなか出にくくなった私たちではありますが、よく行ける居酒屋さんがあります。喫茶店のように明るくて、ずっと喋っていられる優しいママのいるお店です。
(お願いだから見かけても声かけないでね)

そこに行くと必ず座っている人がいました。
カウンターの端っこで、みんなに背を向けて、見るともなくテレビを見上げ、静かに飲んでいる60歳くらいの方です。
ママ情報によると
独身で、仕事をやめて年をとった認知症の母親を介護している。
家賃収入があるので、お金の心配はないけど、お母さんが眠っているときしか一人になれない。起きていないと、名前を呼びながら商店街を歩いてしまう。
そのたび、ママはその人が寄りそうなところを探して回る。

これだけの情報を得て、「認知症の人と家族の会 りんどう」の書記長(ひとりだけど・・・)としての私は、大層気になる。
次にお会いしたときに、「こんばんわ」と声をかけてみると、ちらっと目は笑うが、声はきこえない。

その後、そのお店に、その方とお母さんがいらっしゃるのに遭遇した。
小さな背中を丸めて、嬉しそうにお店で食事をしていらっしゃるお母さん。ステキ・・・・いいな。
そんな情景を見ると、私はただうらやましく、涙だって出てしまう。
私だって母と飲みたかったよ。

ママは「あの人はね、お母さんを楽しませようと、近くのパチンコ屋さんにも、連れて行くのよ」と、うれしそうに報告する。
デイケアには行ってないの?」と聞くと、とても嫌がって行こうとしない。その点はガンコだとのこと。
介護している人も、他人にはまかせられない、と出そうとしないようだ。

月1回の私たちの「りんどう」はどうかしらとも思ったが、受け入れてくれそうもない。
今評判のまんが、はげた息子が老いた母を介護する「ペコロスの母に会いに行く」の本ならどうだろう、と勇気を出して渡したけど、反応はうすい。

読みました?

・・・う〜ん、ちょっとは読んだけど・・・

話は途切れる。とぎれる。

あぁ居酒屋で月に1回会うくらいだもんなぁ〜

♪絵もない 花もない 居酒屋〜でぇ〜♪
だもんなぁ。

そういえば、1度だけ「歌いに行きます?」と誘われたことがあった。
そのときは、ひと言も口をきかないのに、歌うんだ?とびっくりした。
だけど残念。
私たちは歌がダメだ。
(歌声喫茶の時代の人なので「カチューシャ」「灯」は得意だけど今どきの歌は全くダメ! 一度歌ったら指さされ、しゃがんで笑われて、すごくキズついた。2度と歌うもんかと誓ったのだ)

 

そして、年が明けて、新年会だねとその友達とお店へ行くと、
ママが座って、改まった顔で話し始めました。

「悲しいお話があります。
いつものあのお母さん見ていた人が、亡くなりました。自殺だったよ。」

と。

涙が止まらない。
悔いが残りすぎる。

お母さんは、その人を捜し続けているそうだ。
兄弟たちによって、どこか施設で過ごすことになるそうだ。

2人、同じ形の大小の背中で、商店街を歩く姿が、ずっと目に浮かんでいる。
年をとっても安心して暮らせるようにと、一生懸命動いていたんだけどなぁ。

ごめんね。
もう少し私になにかできること、あったよね・・・。

(せめて、カラオケにつきあって、話が聞けていれば良かった・・・)

 

2014年3月

〜 愉快な仲間たち 〜

このホームページが更新される頃にはもう、皆さんわかっていることだから書きます。
今年度いっぱいで、潤くんが退職します。

この人は某Y幼稚園(すぐそこ)に実習に行って、コテンパンにやられて単位がもらえず、再実習でここに来たのでした。
実習に向けてのオリエンテーションのときに、私の演説をポケ〜っとして聞いていたのを思い出します。
(正直、この人聞いてるのかなぁ、わかってるのかなぁ〜と少し不安でした)

一生懸命だというそこだけはわかる実習を無事終え、なんだかんだと学校の休みの時とか、よくあらわれては子どもと遊んでいました。
なにか感じるところがあったのでしょう。
そんなこんなのうちに、西小岩幼稚園で正式に仕事をするようになって、8年がたちました。

ゴミ箱に頭つっこんだり、いつでも「ハラへったなぁ〜」と叫んでいたり、何とも面白い人です。
でも・・・大人になっても、人ってこんなに成長するんだと思わせてくれたひとりでもあります。
子どもへの対応は勿論、お母さん方へのよせる気持ちも細やかで深くなって行くのを目のあたりにしてきました。

それはただただ彼がまわりの保育者から、親から、なにより子どもたちから、学んでいるということだと思いました。
語る言葉、書く連絡ノート、
そうだよね、そう思うよ
と、いつしか私も深く共感する仲間になっていったのでした。

退職の理由は、
・・・お金、です。

公務員になってしっかり働き、
オイラお母さんを支えて行くんだィ!」ということです。
幼稚園って、休みはしっかりあるけど、給料は安いのよねぇ。
(ココだけかな?)
特に男性保育者が後ずさりするのはよくわかります。
みんなで良き公務員になることがどんなに大事かと言い合いながら、気持ちよく退職を認めました。

(でも、実はずっとグチグチ、ネチネチ、
さびしくて悲しいから、なおさらみんなでグチグチ・・・)

どんな時でもいっしょに働く仲間を思い、大変な仕事をまっさきにやり、笑い、食べ・・・。学び、成長する人ではありますが、しか〜し!

冬休み明け、電話で潤くんのやりとり。
子どもが「入院」ということばがきこえてきました。

みんなびっくりして、

どうした? なんで入院だったの?

聞くとすごく真剣な顔で、

えーっと。ちょう、ちょうじゅ、あんです!
えっ!? ちょうじゅあん?長寿庵・・・?
(おそば屋さんか!?)

あわてる潤くん。

いや、ちがう、ちょう、ちょうじゅえん・・・?
えっ、ちょうじゅえん?長寿苑?
(老人ホーム?)

もぉ〜

ほんとうにおバカなんだから。

ここは私がまとめるしかない。

おそばやは長寿庵、老人ホームは長寿苑、そのこの病名は腸重積(ちょうじゅうせき)。一歩間違えれば大変な病気だよ! 大事に至らず退院できて本当に良かった!

ま、、、潤くんだけではないんです。
15年以上前ですが、現主任のKちゃんは灯油を注文するのに、なにを間違えたか区役所の総務課に電話しました。
K「灯油おねがいします!(キッパリ)
区役所「えっ!?
K「えっじゃないんです。灯油お願いします!
区役所「こちら、区役所総務課ですが
その頃園長代理兼事務の、故大串先生は、ことのほか役所を大事にする方で、日頃温厚なのにその時は本当にイヤ〜な顔をして、

西小岩幼稚園とばれてますか?
 ほんとうにこんな間違いはコマリマス。
 区役所に灯油の注文をするのはやめていただきたい。

と、おごそかに申し渡していたっけ。

 

え〜っと、

何の話でしたっけ?

 

そうそう、潤くん、元気で頑張るんだよ。
ここにいる愉快な仲間は、ずっと仲間のままだからね。
(ほめてるんだか、けなしてるんだか・・・)

 

 

2014年4月

〜 雀のおやど 〜

涙と笑いで楽しい卒園式が終わりました。

私たち職員の思いは、ただただ
このかわいい子どもたちと会えて良かった。
 いっしょにいられて嬉しかった

です。
ボロい園舎、未だに和式トイレ、
よくぞこの幼稚園を選んできてくれた!
ありがとう!
だって、ほんとうにほんとうにかわいい子どもたちなのです。

怒ったり笑ったり、毎日をいっしょにすごしながら、
どんどん大好きになっていったこの子たち。

出会えてよかったぁ〜
嬉しかったぁ〜

 

別れるのはさびしいけれど、いい卒園式でした。

誰かが言っていました。
卒園児とか親とか先生じゃないよね。家族にしか見えないよ・・・

 

ほんとうに、「家族」です。

 

子供たちが少しの間いなくなった園庭は、カエルが起き出してきて、たまごをうみます。
小さな池のメダカたちも気にかかり、用務の人はカエルのうんだたまごを池に移したり、おおわらわです。

カエルやメダカだけでなく、雀も来る庭です。
行けのそばには先代の園長のおじが置いた「野口英世の像」があります。その像は(親しいからだろうけれど)・・ちょっと砂場の道具を置いておく場所や、時には首になにかをひっかけさせてもらう場所になっていたり・・・

写真

それほど大事にされてはいないけれど。。。

その野口さんの顔のまわり、キンモクセイの木の下に、小鳥用のエサを用務の人がまくようになりました。

すると、その人がエサをまくのを待つ雀の姿が、なんともかわいらしい。
1日2回、朝と夕方と、厳しく言いわたされ、はじめのうちは「もうエサあげました」と言われるとがまんしていたのですが、やはり自分であげたい、少しならいいやと少しまく。
となりの家の屋根や園舎の屋上のところに、何十羽もならんで待っている姿に、どうしてもあげたくなる。

そのうち、夫や娘も、あげたくなって・・
1日2回がひとり2回、合計8回もエサをまくことになってしまいました。
どうなんだろうこれは?
おなかいっぱいならたべないだろうし・・・。
ま、いいか。

この雀たちは昔から、幼稚園にいる子どもが送りのコースでいなくなると、まつ組のへやに飛んできて、へやのスミに掃除しきれなかったお弁当のごはんつぶなどをついばんでいたりする。

 

なんて自由なんだろう。

 

子どもがいないとき、カエルがコロコロと鳴き、雀がチュンチュンと盛大に鳴き、ちっともさびしくない。

でも、やっぱり子どもたちがあそんで笑っている時の大さわぎが一番好き。

 

もうすぐ、子どもたちがきます。

 

2014年5月

〜 年のはなれた友達 〜

谷川俊太郎さんの絵本「ともだち」を、発表会で年中ばら組が演じました。
みてくださる人たちが、シーンと耳を傾け、深く思う目になっていくのがわかる、ステキな題材です。

その「ともだち」に私が特別ゲストで出演します。
子どもたちに誘われていっしょにあそぶ・・・年のはなれた友だち役です。

この役が好き! 

誰にもやらせない!  

(たとえば「三匹のやぎのがらがらどん」ではトロル役が好き。思いきり大きな声を出して、子どもたちをふるえあがらせるトロル役も、誰にも渡さない!)

子どもたちの中には、手術をしないとならない病気を抱えて入園してくる子もいます。
入園した時から、いつ頃には大きな手術が控えています、と・・・。
その子も心臓の手術が決まっていて、でも予定していても、体調や、インフルエンザがはやったり、なかなか思うようには進まず・・・。

手術日決まりました
手術延びました・・・

何度かの繰り返しの中で、お母さんが、

・・・いちどに、しらがになる・・・
とつぶやかれた言葉が、胸にせまりました。

そうだよね。

心配だよね。

無事に終えて、元気に笑っているであろう子どものため、
もうひとふんばりだね・・・と話します。

その子の兄も在園児で、お母さんが病院でのつきそいがはじまると、どうしよう・・・という相談が来ました。
行きはお父さんがつれてくるとして、帰りはどうするか。
お弁当はどうするか、いろいろ、いろいろ、どうしようと。

お母さんは、考えること、決めることがいっぱい!
もちろん、園としてはなんでも協力するよと職員全体で何度も話しました。
通勤の自転車をママチャリ用にして、朝、近くの職員が連れてくる。お弁当はみんなで順番に作る。
帰りは友だちの家に遊びに行く、などセットして、また、職員の誰かが送って行く・・・ない頭をしぼり、協力したい気持ちだけはいっぱいある職員たちです。
でも、ママはお兄ちゃんを一時的に保育園に預けることにしたそうです。
お兄ちゃんも

保育園は給食がおいしいらしいから、オイラ、楽しみ!保育園に行くよ!

と元気に言ってくれたからと。
その方がお母さんの気持ちが楽なのかなぁ。
お兄ちゃんは、急に別の集団で大丈夫なのかなぁ。

担任が聞いてみると、
うん、ダイジョーブ!
の返事。
なんかなぁ。

弟くんの手術が無事に終わることが第一だから、お兄ちゃんが「ダイジョーブ!」と言っているのだから、それでいいのか・・・。
職員みんなが、なんだかモヤモヤとしていたあの時。
ところが、インフルエンザがはやっていて、手術の日が延び・・・。お母さんも病院のことも少し見えてきて、今度その時が決まったら、ご近所や幼稚園のママ友や、みんなをありがたくまきこんで、なんとかやろう!ということになりました。
給食を楽しみに、お母さんが大変な時だけ保育園にいってもいいよ!と健気に言ってくれていたお兄ちゃんも、幼稚園でなんとかしたいと言ってくれました。

オ〜!
良かった!
幼稚園は、なんでもするよ! 良かった!

 

photo

 

大変な時をこえ、手術は無事終わり、元気に本人は幼稚園にもどりました!
時々Tシャツをまくりあげて、誇らしそうに手術のあとをみせてくれるのが、なんともかわいい!
よし! よくぞがんばった! えらい! 尊敬する!
そのたび私はその子の頭をくしゃくしゃとなでて言います。

そしてその兄は・・・。
私はずっと気になって話したくて、でもちょっと気後れしていた・・・私なんかが話してもいいのか・・・。
でもやっぱり話したいことは話した方がいいと、ちょうど二人になったある日、思い切って話してみました。

あのさ・・・弟の手術の時さぁ〜、保育園に行くって言ってたでしょう?
給食おいしそうだから保育園行きたい・・・とかって言ってたでしょ?
でもさ、あれはさ、お母さんが弟のことで大変で、弟だって大変で・・・あなただって、ずいぶん心配したよね。
いよいよ手術で、みんなが大変だもの。自分は、なんとか力になろうって考えて・・・保育園に行くのイヤじゃないよ!行きたいよ!って言ってくれたんだよねぇ。ありがとねぇ。みんなのコト考えてくれて。
あなただって、すごく心配だったし、すごく心細かったよねえ。。。。

などと、ぐずぐず、ぐずぐず・・・。

その子は私の話をじ〜っと聞いていてくれました。
そして、なんか落ち着かなくしていたかと思うと、走って、自由帳とクレヨンを持ってきて、なにやら描き始めました。

なに描いてるの?
みちゃダメ!
の繰り返しの時間がたつうち、絵に胸をつっぷしてかくし、てのひらをつきだして、

ねえ、み、ってどうかくの?

私は、あったかなちいさなてのひらに、
ゆっくり指で「み」を、「たみこの、み」を書きました。
そして描きおわった絵は、まさしく

たみこさん!!

髪の色もエプロンの柄も、まったくそのままの、たみこさん。

 

私は、この子と心が深くつながっていくのを感じました。
人が人と、こんなにも深く強く心を通じさせることができることを、また、教えてもらった。

年のはなれた友だちとすごした、しあわせな、しあわせな時間でした。

 

2014年6月

〜 事務室にて 〜

誰もいない事務室に、ひとりでいる事がある。

いつもなら、だれかがもぐってる机の下も・・・しずか。
で、必ず思い出すことがある。昔のこと。
(ず〜っと変わらない事務室)

あるお父さんがいつもとちがう顔をしてやってきた。
保育参観やらでお会いする、たまに送り迎えでお会いする時とは、人相が変わっている気がしてちょっとびっくりする。

相談があります」と言うのだ。

わけあって、今、妻と別居中で、父親と祖母が子どもを見ているとのこと。そして、別居中のママが子どもにどうしても会いたいときかないので、これからここに来る。

ここ? 事務室!?

えっ! えっ! なにがあったの?

間もなくママが走り込むように事務室に入って来た。
子どもに会いたい。呼んで欲しい

でも、パパはキッパリと言う。
幼稚園で、先生の前でしか、ダメだからな!」と。

一体全体、なにがあったの?
その子は、そういえばなんかさえない顔でいるけれど、おばあちゃんがきちんとした方で、よく関わってくれていたので、なんの支障もなく通園しているように見える・・・。
なんだってママは出て行ったんだろう。

にらみ合うように立っているご夫婦。
私はオロオロと混乱しつつも、とりあえず子どもを呼ぶ前に、若く明るい、よく笑っていたママに、
どうした?
と聞いてみる。
苦しそうにママが話しだす。

この人(夫)が浮気をしたんです」
(パパ、反論もなくうつむく)

はい・・・。それで・・・(とても言いにくそうだ)
 私もくやしくて、仕返しに・・・

(え? 仕返しに? 浮気?

はい・・それで、けんかになって、家を出ました。
 でも子どもに会いたいの。呼んでください!

パq パもこの事務室でなら会わせてやると言ったようだ。

どうなんだろう・・・・

混乱したまま、しかたなくその子を事務室に呼んだ。

ママはとたんに目に涙をいっぱいうかべて、
おいで! だっこさせて!」と両手を広げている。

ところが、その子は困ったように立ち尽くすだけ。
(そりゃ、そうだ。。。この子がどんな想いで父母のいさかいを見ていたか、おばあちゃんもまきこんで、大変なことだったろう・・・。 

そしてママが家を出ていって、今、「おいで!」と事務室にいる)

私だって、どう考えていいのかわからない・・・。
無理矢理のように、ママはその子を抱きしめて、泣いていた。

そして、嵐のように、そのふたりは時間差で出ていってしまった。

残されたその子と私は、抱き合って、ボーゼンとするばかりだった。

その子はしっかりしたおばあちゃんもいて、ちゃんと通園し、卒園していった。

ただ、その子からパパのこと、ママのことなどが話題になることはなかった。
友だちと大さわぎして遊んでいる姿を見てホッとするしかない、無力な私。

事務室にひとりでいると、必ず思い出す。

元気かな。
どうしているかな。

 

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少し前にはやった

やられたら、やりかえす!倍返しだ!

のコトバ。

できたら・・・やられても、やりかえさないでほしい・・・。

 

2014年7月

〜 おにぎりつぶし 〜

今年も年長さんを連れて、プークに行きました。

新宿に行くまでの電車は私の青春まっただ中、学校へ行ったあの路線です。子どもたちのざわめきのなかで、時々胸がキュンとなるなつかしいような苦しいような思いで・・・電車からの景色をチラ見する私。
(あら、イヤダ! あら、なつかしい!)

イヤァ〜、年月はたつものだ。
年を取ったもんだ。

そして今、私は年長の子どもたちといっしょにここにいる!

プークはいいですねぇ。
今年の演目は、テーマ性があり、なんとも考えさせられつつ、涙がこみあげ、しっかり考えしっかり生きなくちゃと思わせられるものでした。

終わって、いつもの劇場5Fでお弁当を食べさせてもらうときのこと。
私が嬉しくお弁当を広げている目の先で、男の子がガンガンとこぶしでとなりの子のおにぎりをたたきつぶしているのが見えた。

カッ! っとする私。

だれだぁ! せっかくおいしく食べさせようとママが一生懸命作ってくれたおにぎりをつぶしてるのは〜!!

一瞬まわりのみんなが凍りつくのがわかる。
すかさず泣き出す・・その子。

なんでおにぎりをたたいてるのかと聞いている!
とつめよる私。
激怒する私にふるえあがって、かかわるもうひとりの子もここは泣いておいたほうが嵐はおさまるか・・・と泣いてみたりしている。(泣いてもむだだよ・・・)

AのママはAに、おいしく食べてもらいたくて一生懸命つくったんだよ!
Bはなんだっておにぎりをつぶしたの!?
わけを言って!
この子のおにぎりをつぶして、その子のママも悲しむし、おにぎりにもわるいよ!!

どこまでも言いつのり、つめよる私におそれをなして、また別の子が泣き出した・・・。
まわりの子も怒りくるう私をおさめようもなくて、シンとしている。
Bはぶつぶつと「あのね、あのね・・・」と弁解しようと口ごもりつつ、ペタンコのおにぎりをふるえる手でつまんでいる。

どうおさめようかとちょっと迷いはじめたところに、近くにいた子が、
あのね、はじめにつぶしたのはAなんだよ・・。それを見て、Bがたたきはじめたんだよ・・・

へっ?

ご本人のおにぎりを?

ご本人が、まずはつぶした?

落ち着きはじめた私に、ふるえあがっていた子たちもおずおずとコトの次第を語りはじめた。Aが自分でふざけてつぶしたところ、となりのBが調子にのって、ガンガンとつぶしたらしい。

どっちにしてもいけないことはいけない。

で、でもね、見ていたその子が私の鬼のような形相にもめげずに、ことの次第と状況をしっかりと伝えてくれたそのことが、帰ってからの職員室で話に上がった。

あの子はすみれで入った時は泣いて泣いて、用務のおじさんにずっとくっついていて、姿が見えないと泣いて、へやにはなかなか入らずに、そのままずっと泣きつづけるのではないかしら・・と心配になるほどの子でした。

その子がどんどんたくましくなり、今。

鬼のたみこさんにびびりもせず、きちんとその状況を教えてくれようとするそのことに、私たちは感動していた。

「大きくなった」
「強くなった」

強いものにびびって、自分に飛び火することを恐れて知らんふりを決め込むことをしないで、ちゃんと自分の見たことを話してくれたそのことが、なんだかとても嬉しい。

 

2014年8月

〜 8月の思い 〜

暑い暑い8月でした。
年々暑くなるのですね。

春夏秋冬という四季は消えて行くのでしょうか。

8月、広島の日、長崎の日、そして敗戦記念日。
戦争のむごさを、生命の大切さを、また、ここで胸にしっかりときざむ時でした。

私の父は10年以上前に92歳で亡くなりました。

小学校の教員だったため、兵隊には行かないで子どもたちをつれて、新潟に疎開をしました。

戦争について語る言葉は、「かわいそうだったなぁ〜」です。
日頃は仲がいいとは決して言えない父と母ですが、学童疎開の時のことを話している時は、思いがひとつになって、目を合わせている。子どもの私がみても、なんとも美しい夫婦の姿だった気がします。

でも話されていたなかみは、親元をはなれて集団ですごす、いつもひもじい毎日のこと、お母さんが恋しくて泣きじゃくる子どもたちに満足に食べさせてあげられないつらさ、後に見せてくれたその頃の日誌の食事のところには、カボチャ、イモ、カボチャ、イモ・・・・

「かわいそうだったなぁ〜」
父の声が耳にのこります。

夜中のテレビで、特攻隊だった人が穏やかに静かに、言っておられました。
戦争は人と人の殺し合いですから、戦争はいけません。殺し合うのが人ではありませんから

戦争を知らない人たちが増え、
集団的自衛権なるものができ、この国はどこに向かうのでしょう。
唯一の被爆国であり、原発事故の終わりが見えずの、この国。

私はもうすぐ死ぬからいいけど・・・

と、ずっと言っている私ですが、プールで大はしゃぎして笑っているこの子たちのために、やれることはやらないと死ぬに死ねません。
(この頃は、化けて出ることも考えています!)

明日のこの子たちのために、手をつなぎましょう。
生命を大切にすることを、誓い合いましょう。

そうじゃないと、 

私、 

ほんとに、化けて出ますから! 

 

2014年10月

〜 話し合いのリレー 〜

今年は天気のコト、ひとつも気にしないで運動会ができました。
これはひとえに私の心がけが良かったからにちがいありません。
たみこさん、多分ちがいますよw :HP制作担当より

年長まつ組は毎年全員でリレーをします。
お泊まり会の時のグループで走ります。
(というわけでお泊まり会も運動会につながっている。もっと言えば、年少からず〜っとつながっているというコト)

毎年うまれるドラマ。
今年は、ひとつのグループが何度やってもビリになってしまうのです。
なぜかと言うと、遅い子がいるからです。
狭い園庭でやっても、ぶた公園に出かけてやっても、いっつも、いっつも、ビリです。

運動会が近くなり、職員の話し合いのなかで、
あのグループは、どうしても勝てないけど、子供たちはどう思ってるのかしら?
いつもビリだから・・・イヤだ!」っていう子はいないの?
と聞いてみると、
・・・「いない
そんなわけはないんじゃないかしら。
私たち保育者は、「やさしい」とか「みんな大事」とか、いつも言っていて、子供たちの本音を押さえてはいないのかしら・・・。
本当に思っていることを言い出せない子がいるのではないかしら。

ほら、何年か前、ザリガニの水そうに粘土のかたまりを入れた年少の子をどなりまくって、貧血起こさせたのは私だし。

やさしいことはいいこと・・・正しいこと!
それが職員のみんな、幼稚園の全部に蔓延(マンエン)していて、
子どもたちが手も足も出ないんじゃないかしら。
悪いかもしれない。意地悪かもしれないけど「ぼくはこうだ!」
と・・・言い出せないってこと、ない?
私は、いつもなんか気になってるの。
と、たみこさんは正直に先生方に話します。
だって、私もだけど、みんなやさしいんだもの・・・(?)

いろいろ話して、いつもビリになるグループの子に、少し聞いてみることにする。

私「ねえ、いつもリレーでは何位なの?
子「う〜ん。4位(ビリ)
私「なんでよ!? はやく走れば・・!
 (わかっているくせに、なんて意地悪なこと言うんだろう、私)
決して、○○が遅いからビリになっちゃうとは言わない子たち。
本当はどう思ってるんだろうと、まつ組全体にさり気なく(お弁当の時間に)入ることにした。

私「まつさ〜ん、もうすぐ運動会だねえ。
 リレーどう?はやくなった?一番はやいのはどこグループなの?

そして、いつもビリのグループの子が言いはじめた。

子「だって、○○が遅いんだよ。だからいつも負けちゃうんだよ」と。
でてきた。でてきた。
いろいろ話すうちに、
子「運動会まではビリでもいいよ。でも、運動会の日は、その日だけは、ビリじゃなくて、勝ちたい!
パパやママにカッコいいとこ、見せたいんだ!
(なんと正直な、なんと健気な・・・)

そうか、じゃあ○○が走らなければいいんじゃない?

と、大人。

○○を走るのやめてもらってだれかが2回走るとか?

うん、うん、とうなずく子もいる。
よし!じゃあ○○は走らせないことにしよう!
と高らかに宣言する私。
すると、部屋の中の空気がシーンと変わる。
子供の心に「」のマークが。
しばらくすると、ひとりの子が「ねえ、○○は、とっても楽しそうに走ってるよ・・・。○○だって走りたいんじゃない?

涙をためて、必死で言ってくる。

他の子も言う。
○○はお泊まり会もいっしょだったし、チームだよ!

そうか。
意地悪い大人はいう「そうだねえ。嬉しそうに最後まで走るよねぇ・・・。
でも、○○は遅いよ? ○○が走ると、負けるよ?

子「一度勝ったことあるよ! ○○をスタートのずーっと前から走ってもらった時は、勝ったよ!
大人「じゃあ、みんなは1周、○○は半分走る?
子「うん!そうする!」と何人かが納得。

当の○○は「えっ!?」と時々は気になる様子。
するとまた別の子が「でも○○だって1周走りたいかもしれないよ!

きいてみよう。

○○1周走りたい?
○○「・・・うん

でも・・・走ったらまけるよ・・・」(まだ言いつのる大人)

そして話し合いはどこまでも続く。次の日も。

遅い子はぬかせばいい!
遅い子ぬきでやればいい!
そんな話ももちだす大人(とことん意地が・・・わるい)

涙をたくさんため、「なんかちがう!」子供たちは考える。

リレーってなんだ!

チームってなんだ!

仲間ってなんだ!

いっしょに生きるってなんだ!

同じチームでアンカーのいつも最後を走るAは涙をこぼさないように上をむきながら、話し合いに参加している。

そして言う。
いい! いっしょに、みんなと同じように走るのがいい。
園庭での話し合いでは、他学年の担任もみんなまわりにいて、
涙をふきふき、話し合いを見守り、聞いている。
みんな、同じ思いだ。

 

運動会当日、みんなと同じだけを走った○○。

そして、なぜだか、ビリではなかった。そのグループ!

リレーってなんだ?

共に生きるってなんだ?

人生何がおこるかわからない・・・生きていこうよ!

 

2014年11月

〜 辺野古 〜

ちょっと前。
秋の深まった休みの日のことでした。
夫と私の共通の友人が(すでに退職して奥さんの故郷である沖縄に移住している)、亡くなったとの知らせが来た。

彼は沖縄を深く愛し、そこから日本を考えている人。
辺野古への基地移転に反対していた人です。

その日も仲間と、海へ船を出してきたようだ。
基地をつくらせない!」と。
ところが仲間の船が潮に流されそうになるのを見て、なんとかしようと海に飛び込み、流されてしまったという。

海上保安庁の船に発見され、あの美しい、自らが守ろうとした辺野古の浜で、心臓マッサージが続けられ、仲間みんなが声を限りに叫んだという。

かえってこ〜い!
いくな〜っ!!」と。

彼が亡くなる少し前、私の息子が休みを取って、基地反対の応援に行っていた。
ちょうど彼に会い、「そうか!君が来たか!」と、ただ思い出話をするひまもなく、「そこの!つなを持って!」と力強く指示を受けただけで、お互いの仕事へと別れたという。

なつかしいなぁ。あの人はねぇ〜

昔のことを思い出しては息子に話を聞かせていたばかりなのに、
飛び込まなくてもよかったよねぇ、とくやんでもくやんでも。。。

辺野古では、事故を起こさないことを確認しあい、仲間みんな腕に喪章をつけて、次の日にはもう海に出たという。
彼のためにも、辺野古に基地は作らせない。

合言葉は「彼が見ている

私も涙が止まらなかった。
海を見ても、船を見ても思い出すと涙が出る。

でも、涙をふりはらい、戦争につながる全てを拒否します!と言う!
子どもたちを戦争に巻き込むのは、許さない。

 

2014年12月

〜 古時計 〜

45年近く動いていた事務室のタイマー式の時計が動かなくなった!
それを作った時計屋「マジマ」は調べてみたら、もう、無い。

前の園舎には小さな時計台のようなものがあって、7時、10時、12時、2時とウエストミンスター教会の鐘の音と同じ音が鳴り響いていた。

やっぱりというか、当然というか・・・。しばらくすると近所から「うるさい」と苦情がきて、前園長のおじは、「こんなに美しい鐘の音をうるさいとは・・」とプンプン怒っていたっけ。

それで、10時と12時と2時に園内で
キンコンカンコン♪
と鳴るようになりました。

ところが、園長である我がおじは、朝10時に鳴ると、
「はい!お教室に入ってお勉強をしなさい!」と子ども達に通告する。
9時くらいから遊びはじめてちょうどもりあがり、のり気になったあそびを、
時間だからとやめさせてしまう・・・。

他にも面白いことは多かったのですよ。

「階段は走らない」

「園庭は走らない」

「滑り台をすべる時は靴をぬいで並べる」

・・・などなど。

子どものあふれるような熱く生きる、燃えるように遊ぶ力は、
「あぶないからダメ」ということで、おさえてしまう。

当然のコト。
私達職員(私も伯父にとって職員)は「子どもの遊びをこま切れにしたくないので、鐘の音は無視する」と断固として抗議し、伯父と私はものすごいケンカをした。

子ども観、保育観がこれほどズレているなんて・・・。

で、スッタモンダあって、私は「こんな幼稚園やめてやる!」と一時は公立の保育園にいたこともあるのです。

(ジュン君じゃないけど、公務員だったこともあるのよね〜 こう見えて)

一生懸命学んで、また西幼に戻ったのです。
伯父は年をとり、あまりぐずぐず言わなくなりました。
それから先生たちと楽しく保育を積み上げていったのです。

私が子どもに認められ、受け入れられた瞬間を、今でも覚えています。
それは・・・ドッヂボールです。
園庭でドッジボールをやっていた子どもたちに、新任保育者の私が近づき、「入れて」と言いました。

「いいよ」と入れてくれた子ども達にむかい、
私は力のかぎり、ボールをぶつけたのです。

「えっ」
という顔で、からくもボールを受け止めた子が、
次に私を見る目は、もうさっきとは違っていました。

それまで、やさしいやさしい先生たちは、ドッヂボールといってもケガしないようにそぉ〜っと投げていて、受けてもらって、気分良くドッヂボールをさせてあげてる・・・みたいな気遣いがあったみたいで、大人はやさしく楽しませてくれるものだと思っていたようです。

ところが私はあらん限りの力でボールを投げつけてやった・・・。

そう。

子どもをなめてはいけないよ!
対等に向き合って、この先、この新しい先生と仲良くガッチリ組もうぜ!!

と私の思いでした。

そして、「オッ!? やるな!」と子どもたちは私を認めてくれたのでした。
力いっぱいのボールは、子どもには新鮮だったらしく、その後、年長の男の子を中心に「ドッヂボール」がものすごくはやって、私はいつも「ドッヂボール」の真ん中にいた。

全身でぶつかる。

決して子どもをなめないでまっすぐに向き合う。
それを一瞬にして思った時だった気がする。

そんなときも「キンコンカンコン♪」と無情にもあの鐘が鳴り、ピーピー笛ふいて、
「お教室(?)に入りなさい!お勉強(?)をしなさい!」という伯父である園長の声が聞こえる。

マジマの時計

あ〜あ。

あれから40年以上か。
「マジマ」の時計も修理不能だもんなぁ〜

キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン♪ 

 
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