たみこさんの部屋

2015年1月

〜 古時計 part2 〜

先月、お別れする! と宣言した古時計のことなんですが。

なんと!

よみがえりました。

もう修理不能とあきらめてとりはずす時にはお花を供えて・・・
と、涙ながらに考えていたのですが、茂夫おじさん(用務のおじさん)が、近所のお友達の「酒屋の服部さん」に相談してくれて、始まったのが「修理するぞキャンペーン」でした。

冬休みに入った事務室にこもり、時計とにらめっこ。
文字盤を外し、服部さんからきいたという「ミシン油3:自転車油7」というなぞの配合の油をさしながら、あちこち掃除し、しくみを手書きで書きながらの気の遠くなるような作業を、毎日何時間も続けたようです。

私が「もうダメだ。あきらめよう」と言ったことで、
直らなくても取り替えるつもりなんだからいいんだ・・・
とふみ、それからチャレンジが本格的に始まったようです。

振り子がずっと動いてる(今までは1分もしないうちに止まってしまっていた)ずうっと見ていても、ピカピカにみがかれた振り子が動き続けている・・・。

うれしい!!

一番よろこんだのは、
直した本人でした。

その努力と苦労を誰かに聞いてもらいたくて・・・聞いてもらいたくて、でもパソコンだってできないわたしに時計のことを説明したってそりゃあ無理というもの。

「自転車油とミシン油」だってようやく覚えたんだから・・・。
誰も聞いてくれなくて悲しんだおじさんは、とうとう年中組のショーギ友達のあおチャンを時計の前に連れてきて、聞いてもらっていましたっけ。

やさしいあおチャンは、
そうなの? そうなの?」とあいづちを打ちながら聞いてくれていました。

ありがとう。あおチャン。
(私にはできない・・・)

とりあえず、私がこうして書いているときに、ちょっと目を向けると、あの古時計が規則正しく振り子を振っているというわけで・・・。

 

ホッとしました。

 

まだまだ油断はできず、キンコンカンコンのチャイムも時計と連動しているとかで(これも聞いてもチンプンカンプン。なんのこっちゃ!)とんでもないときにキンコンカンコンと鳴るが、それもおいおい直すと言ってくれている。

どうも夏のお泊まり会(いまの年中が年長になった7月)に、夜中まで時計を睨んでいて、直す!
と張り切ってくれている。

「悪いね」
話を聞く力もなくて・・・。

私って保険のお話、お金のお話、機械のお話、一切入ってこないのよね。

意地悪してるわけじゃなくて、分からないのです。

私ももうすぐ誕生日。

あ〜あ。

また、年をとる。

この頃、ホントに疲れるのよね。
やっぱりというか、当然というか・・・。

年、よね。

 私に「自転車油7:ミシン油3」は、きくのだろうか・・・。

 

2015年2月

〜 お母さんは 保育者 〜

大昔、私はバリバリの保育者で、
実家の保育園の主任保母として、熱心に子どもと向き合っているつもりでした。
その頃の保育室では、絵本を読むというのは片付けしている間に子供をまとめておく時の便利な時間。

カセットデッキのスイッチをポンと押して、ピンポンの音がするとページをめくる。
上手な声優の声がろうろうと朗読するのを機械的に動かしての絵本の時間。

テメェ〜
コノヤロ〜

これは絵本を読むということではないだろう〜!!

私はカッとなりました。
心底カッと!

でもそこは大人な私。
絵本の大切さ、大好きな大人が大好きな子どもに語りかける、愛とロマンの時間(?)
本を読むことは、生きる力へと直接つながるから。

本を読むことを大切にしようよ、と、共に働く人へと熱心に語り、
実践してきました。
子どもが目を輝かせて聞いてくれるこのことに気づき、保育者自身が楽しんで本読みをするようになるのにそう時間はかかりませんでした。

その頃は保育者が足りなくて、私の父は自ら養成所のようなことをして、保育を目指す人を増やそうとしている。
そんな昭和の時代です。

お母さんたちが急に保育者になっているような、私の職場では、
おしゃべりするのは、昨日の夕飯のメニュー、今夜の夕飯の買い物、ダンナの悪口、子どものグチ・・・が多くて。
保育につて話す雰囲気はなかなかできなかった…。

自分の子の遠足についていくから休みます」と言われた時はびっくりたまげてしまいました。
私の辞書に「我が子の行事で仕事を休む」というのは皆無でしたから。

入学式も卒業式も懇談会も授業参観も、当然私は「行けない」「行かない」私の夫が父親として出席というパターンができていました。

ここだけの話、私はそういう行事に出席したいという気持ちはなかったのです。
夫が行ってくれるなら、私は仕事してた方が良かったとです。(ヒロシです)

ここ西小岩幼稚園でも、職員が「子供の行事があるから」と休んだりするのを「フゥ〜ン」と思っていたことも、正直ありました。
そのことで、大討論会に発展して、ついには女性が働くということ、産休をとることを含めて、侃々諤々(カンカンガクガク)話し合うこともありました。

そうやって学んできたものですものね。
この職場の人は。

私もお母さんが子供の行事に参加したいという気持ちが理解できるようになりました。
みんなで読んで学んだ宮川ひろ作「おかあさんのつうしんぼ」(偕成社)のなかでの「お母さんの席に座ってお母さんの気持ちをかみしめて、うんとやさしい先生になってきてくれること」の意味が、私にもみんなで仕事をすることでわかってきた気がします。

(おそいっつーの!)

2番目の娘が結婚式の時、父親にむかい涙ながらに「学校のいろんな行事の時に、たくさんのお母さんたちのなかで、堂々とニコニコしてくれているパパを見て嬉しかった・・・」と手紙で言っていましたっけ。

そうか! 

あの夫にも、こんないいところがあったんだ。
そんなパパが好きという娘もいたんだ・・・。
 

今気がついた!

やっぱり私はいまだに学び続けている。
遅いけど、かなりゆっくりだけどね。

※昔の本ですが、「おかあさんのつうしんぼ」事務室にあります。貸し出し可。

2015年3月

〜 もう一人の・・・ 〜

先日、買い物に出かけたお店でのこと。
おおきなお店は・・・レジも何列にも追って、ごったがえしていました。

ようやく順番が来てカゴを置くと、
ミヤギシセンセー」と。
そのレジの人は・・・「へっ?
と思ってマスクをしているその人をみたけれど・・・わからない。

あわてて名札を確かめて、ハッと気づく私。

上の子はね、もう結婚して子供がいるの。
 下の子はね、まだ仕事バリバリしてるの・・・。

そうなんだ。みんな大きくなったね・・・。

でも、それで終わらせるわけにはいかない。

その人には、もう一人お子さんがいるんだから。

まん中の子が年長の時にかなりの早産で生まれたその子のお姉ちゃんは、夏に生まれるはずの赤ちゃんが春に生まれ、そのことを「アノネ、このくらいなの」とお日様の当たる園庭で、ちいさな手をふたつまるめて、教えてくれた。

その後、その子が年少になるだろう頃に、入園はどうなるのだろう・・・と少し悩んだ。
いつ会ってもベッド型のバギーで、きれいなお母さんときれいにおしゃれしたその子がいた。

もし、その子が入園して、私たちはきちんと保育できるのか、ちょっと悩んだけれど、お兄ちゃん、お姉ちゃんがいた幼稚園に末っ子も入るのは、ごく当たり前のことではあるし。

思いきって話をしてみたら、ママは静かに、
先生、この子は、幼稚園は無理だと思うよ・・・・」と。

その末っ子のことを、私はまだ聞いていない。
ママが言わないんだから、聞かないほうがいいよ、と、もう一人の私が言っている。
でも、二人のお兄ちゃん、お姉ちゃんの事をきいて、その子がどうしてるか聞かないのは、忘れたみたい、いないみたいじゃないか!と、もう一人の私がいう。

レジはどんどん終わりそうになっていく。
どうする私!?

で、

聞いた。

末っ子ちゃん、元気?

亡くなったのよ・・・

引っ越しもして、ずいぶん会ってなかった。
どうしているかしらってみんなで話していたのだけど・・・。

ママ、元気そうだもん・・・・ね・・・

かろうじて言葉を出す私に、

私も脳内出血やって・・」と話してくれた。

私にはもう、返す言葉もなく、ただ、ママの手を取り、しっかりにぎりしめるしかなかった。

お店のすみっこで、涙をこぼしながら、まだその子が小さかったとき、様子を聞くと「パパがね、帰ってきて、この子をヒザに乗せている時が、1日のうちでいちばんホッとする、楽しい時っていうのよ!
とママは嬉しそうに話してくれたっけ。

みんなに愛されて、その子は逝ったんだろう。
そして、
みんなの胸にしっかりと生き続けているんだろう。
私たちの幼稚園にも、きっとその子の魂が、やさしく訪れているはず。

 

幼稚園の桜は、もうすぐ咲きます。

2015年4月

〜 中学生になったR! 〜

この仕事をながくしていると、時々びっくりするほど大きくなった卒園児がたずねて来てくれることがあります。

先日も、いつもの職員大騒ぎの健康診断を終えてへやから出ると、全く見なれた・・・いつも会っている・・・いや、でもすご〜くなつかしい不思議な男の子が真新しい中学校の制服姿で立っているではありませんか?

R!

と呼ぶ私に、美しい親しげな笑顔をまっすぐに向けて笑ってくれました。

お父さんと一緒に中学生になったRが来てくれたのでした。
Rは他の園に2年いた子でした。
ママは細かい手作業のようなことが大好きな子だったようで、我が子もきっとそんなことを楽しんでくれるだろうと、園選びをしたと言っていました。

ところが!
当然、ママと子どもは別人物ですので、Rは細かい手しごとなどはあまり好きではなく、スキあらば席からはなれて遊びたい!
そんな子でした。

何度かママが園に呼ばれて相談し、何度かママとパパと両方が園でRについて相談し、ママはめげてしまったようでした。
Rには他の園が合うのかも・・・と。
そして、西小岩幼稚園に相談にみえたのでした。

きちんとした感じのきれいなママは、Rのことについて一生懸命話してくれました。
Rが楽しい毎日を過ごせることを願って…。

そのママのおなかがふっくらとして見えて、
もしや、ふたりめ・・・
と思ったりしたことを覚えています。

何回か話し合いをして、では、前の幼稚園ともよく話して「あっちがダメ、こっちがダメ」ではないんだからと転園を決めました。
年長になってからの西小岩幼稚園。
この間やめていった純チャンのクラスに入ることになり、これからという時、本当に急に、ママが亡くなったのでした。
ふっくらして見えたおなかには、病気があったのです。
転園はしたものの、急にママを失ったRもパパも、一体どうしたらいいのか、呆然とするばかりでした。

パパ、どうする? 前の幼稚園に戻る?
ときいたところ、パパは

妻がどうしても来たかった幼稚園です。ここでRをお願いします

新年度の父母総会で、私はパパと並んで事情を話し、お母さん方に支えてくれるようにお願いしました。

お母さん方の胸に、こんな子をのこして逝かなければならなかった無念が、静かに広がって行くのがわかりました。

パパやRのおじさん、みんなでRを守り、支えました。
幼稚園も、全力で支えました。

この間転職した純チャンのクラスで、Rは本領発揮!
本当に、笑って、戦っての毎日でした。

運動会の練習をしているみんなを積み木で作った囲いの穴からのぞいているだけで、決して参加しようとしないR、純チャンはさんざん説得しては断られ続け、とうとう

純「練習します!」
R「しません!」
純「します!」
R「しません!」

えんえんと続く
「します! しません!」
「します! しません!」

聞いている私が変になりそうなとき、Rも純チャンもおかしくなったようで、
純「しません!」
R「します!」
すかさず私が「良かったじゃない! R、します!らしいじゃん!」

ふたりともわかったような、わからないような顔で練習に行きました。。。
と、こんな語り継がれる笑い話もあり…。

パパもよく頑張った!
本当に大変だったと思うよ。
一年しかいなかったなんて考えられないくらい、深い想い。

photo

私の「Rだぁ〜!Rが来たぁ〜!」の叫びで、職員みんなが飛び出してきました!

純チャンがいたらどんなにか喜んだでしょう…。

そういえばパパは私を見るなり、
たみこさん。もういないかと思った…。」って。
(オイオイ、私はまだ死んでないよ!)

まるくRを囲んで、ひとりひとりがRをしっかり抱きしめて、写真をパチパチとって、会えた喜びにひたりました。

そして私は、よく話しをしていた場所、園庭のすみの滑り台のわきで、ママが笑って立っているのをはっきりと、見ました。

くやしがったのは純チャン。
会いたかったよ!! なんだよ! 私がいない時に!
 会いたかったなぁ〜!

と、ぶつぶつはいつまでも続くのでした……。

2015年5月

〜 リズムの神様 〜

木曜日になると「リズム」「今日はリズムだよね」・・・とワクワクしている子どもがいます。

リトミックや体操とは違う、「身体を動かす、音楽を感じる、表現をする」それがリズムです。
ずいぶん昔からやってきているのですが、今は小学校を退職された先生がお二人、毎週木曜日の午前中に来てくださって、みんなで動きます。

大人も子どもも、はだしで動きます!
「うさぎ、馬、カメ、ザリガニ、その他その他スキップやポルカ、側転…」
小さい人は、まつさんの美しい姿を見て、できるようになりたい!と見つめる瞳に力をこめます。
リズムはひとりずつが自分で動きます。
小さい人や恥ずかしいひとは、たまに大人が手をつないだりすることもありますが、基本、ひとりで動くものなのです。
それがまた美しく、力強く、りりしいのです。
よりかからず、ヘナヘナせず、自分がきめて、自分が動く。表現する。
本当に、心も身体も解放されるのです。

リズムによりパッと変わる子がいます。
大人の手にすがって恥ずかしくて動けない。
どんなに誘っても、だんことして動かない。
1年以上も動かない子もいます。
職員室では、みんなでこんなに楽しくリズムができ、という話とともに、動かない子をどうしようか… どう見るかと話します。
あーでもない、こーでもない、と。

1年間ちっとも動かなかったその子をどう見るか…

きっと動きたいはず
動くきっかけを見つけようとしているんだよね
と、大きくなることへののぞみをきっとその子も持っているにちがいないと信じて。

どちらかというと引っ込み思案で、友だちの中にどしどし入って行こうとはしないけれど、きっと、きっと遊びたい、みんなのなかにいたい!
というその子の想いに職員みんなが寄りそっていました。

担任は「きっと一歩踏み出して動けば変わる気がする!」と熱く語る。
そして本人にもそう宣告!

さて当日。
リズムのとき、そばにいる大人も園庭にいる大人も、その子が動くかどうかが気になって気になって落ち着かないったらありゃしない。

で、その子は「サ〜やるよ」の担任の声で、
音に合わせてひとりでスッと動いたのです。

まわりの大人は「わぁ!動いた!」
と心のなかで喜びの叫びをあげた!

たくみに、スムーズに動くわけではない。
どちらかというとバタバタと動いている。
でも、私たちには、その子の動きが光の中で輝いているように見えました。
はじめは遠慮がちな動きが、どんどんのびやかに、大きくなりました。

そして、その子はみんなが思っていたように、次の日から変わったのです。

友だちの中でケラケラと笑っているその子を見るたびに、
私たち職員は「リズムの神様」がいるような気がするのです。

いtなみに、大人もリズムをやってごらんなさいよ。
本当に心も身体も解放されるんですから!
「リズムの神様」ありがとう。
大好きです。

2015年6月

〜 卒 業 〜

今年度は、学生さんはいないけれど(職員の中で)、この前まで「幼稚園教諭 保育士」の資格を取るため、昼間幼稚園で働いて、夜専門学校に通学するという人がいました。

忙しい行事の前、みんながバタバタと準備をしていると、
4時に「すいません〜。お先に失礼します
とほんとうに申し訳なさそうに学校へ行くのです。

みんなは「いってらっしゃ〜い!」と元気に送り出します。
給料も少ないし、大変だね・・・とみんな応援する気持ちがいっぱいです。

そして、3年間!
よく頑張りました。
みんなで「おめでとう!」と口々にお祝いの言葉をのべ、喜びあったのです。

この幼稚園では、3年間学校へ行って資格を取ったら、別の幼稚園か保育園で仕事をするという感じになっていました。退職者がいないことが多いということもあったし、ここでの保育の良さを他のところでも種としてまいてほしいという、ちょっとゴーマンな気持ちもあったし、他での保育をよく知り、学び、保育者として成長して欲しいという気持ちも・・・。

今まで安月給でがまんしたんだから、有資格者になったあかつきには、しっかり高給をもらえるといいね、と「就活」の応援にも力が入りました。

試験や面接を受けて
どう?決まった?
とみんながやきもきしていたあの頃・・・。

受かりました〜!!
あの輝く笑顔が目について忘れられません。

頑張ってね。

しっかり担任持って、楽しく保育してね。

合言葉は「楽しくなくちゃ保育じゃない!」だよ。

と、みなそれぞれの励ましの言葉も、やかましく、肩を叩き、
卒園児と一緒に、その人も卒業して行ったのでした。

新年度が始まり、「元気にやってるのかしらね・・・」と、
いつも気になっていました。

メールのやり取りのある仲間が、
なんか・・・楽しくないみたい・・・
エッ!? あんなに希望に満ちて就職したのになにが・・・

そんなこんなのある日、
休みがとれたので西小岩に行ってもいいですか?
とメールがありました。と。
みんな大歓迎です。
その日が来るのを待ちました。

そして、その日私が事務室にいると、庭の方から、
A〜」「A子ぉ〜!」と呼ぶ子どもたちのうれしそうなうれしそうな声がひびいて、
・・・来たな・・・」と私はひと仕事終えてAのもとに。

すると、

すべり台の下、座って子どもの姿を見つめながら、ポロポロと涙を流し続けているのです。

ア〜ア
あんなに頑張って仕事して学校に通って、資格を取って、
晴れて就職して、なんでそんなに泣いてるの!?

いろいろある・・・それはそうでしょう。
話を聞く私の胸につきささった言葉があります。

先生たちが楽しそうじゃない
先生たちの目がつり上がってる

そして・・・悲しかったのは、
保育が、楽しくない

もっと悲しかったのは、
子どもが、かわいいと思えない・・・

かける言葉もありませんでした。
あんなに笑って子どもから慕われていたあの人が・・・。

忙しすぎるんだ。事務量が多いんだ。
園長や主任と保育観について、
子どもについて話せないんだ・・・などなど。

ぶつぶつ言ってみたけど、彼女はずうっと涙をポロポロこぼし続けている。
聞くと、その日門を入るその時には、すでに泣いていたらしい。

せっかく、せっかく卒業したのに。

あの日からずっと気持ちが重い。
重すぎる!

 

2015年7月

〜 この夏に思いました 〜

暑い暑い夏休みでした。

今年は戦後70年ということで、「戦争」について新聞テレビその他、大きく取り上げられました。
いまの日本は戦争を知っている人が少なくなりました。
私たちは職員室で、よく「子供に戦争をどう教えるか」と話します。

絵本「かわいそうなぞう」を読み、上野動物園に行ったらお墓まいりをして、絵本「おこりじぞう」を読み、みんなで泣き・・・、「斗いごっこ」ってどう考えるかを話し合います。
テレビやゲームでの殺し合い(その場合は生命はすぐに復活します)。
子どもたちになにをどう教えていけばいいのかを、伝えていくのかを、職員みんなで考え合い、話し合います。

以前、「斗いごっこ」がすごくはやって(元気すぎる男の子が多かったクラスでもあるのですが)いくら話し合っても、約束ごとを決めても・・・たとえば、頭や顔をたたいたりけったりしない、とか。
それでもどんどんエスカレートしていき、その担任は困り果てて、一時「斗いごっこ禁止令!」を出したことがありました。
もちろん、禁止したからどうの、ということもなく、少し職員全体でこのクラスのことを、斗いごっこも含めて話し合いましょう・・・そんな感じでした。

男の子だもの。斗いごっこくらいはしたいわよねえ
禁止にするなんて・・・どうなのかしらねえ
とお母さん方からはいろいろ話が出ました。
斗いごっこ」「斗い」について、子どもたちも大人も、考え学ぶいいチャンスでもあると、私はその騒ぎの中で思いました。が、そのことをひとつとっても、私たちとお母さん方が同じ思いで、子供たちを見ることのむずかしさも当然ながら知ったのでした。

ある保育園では、勝ち負けの遊びの時に
」ではなく「相手」というようにしている、と。

この夏、政治の方では戦争法案がつくられようとしています。
どんどん進めば、徴兵制ができ、年長のこの子たちが戦争に駆り出されるかもしれない。その恐怖にずっとふるえていた夏でもあります。
職員の何人かは国会へ反対を叫びに行き署名を取り、沖縄の辺野古の海を基地にさせない映画をみんなで観ました。

なによりも、なによりも、「平和」が大切だから。
子どもたちの生命を守りたいから。

死んでもいいから来ました!
と国会前に現れた寂聴さんは、
戦争にはいいも悪いもない。人と人との殺し合いです」とおっしゃいました。
その通りだとおもいます。
私たちは子どもを殺したり殺されたりするために愛して育てているのではない!と。

私はただ震えていましたが、若い人たちがネットでよびかけて、戦争法案に反対したり広島や長崎でもおじいちゃん、おばあちゃんからの話を聞いて伝える活動をしてる人もいて、「希望」というのは、これなんだな、と思います。

教えるということは、希望を語ること
 学ぶということは、誠実を胸に刻むこと
」(アラゴン)

私はもうすぐ死ぬとおっしゃってる寂聴さんの後につづこう!!
子ども達の平和な未来のために。

 

2015年9月

〜 前園長は私のおじチャン 〜

昔のことを知っている人は、私を「前の園長の、だれ?」とお聞きになります。
「姪っ子」です。私の母の兄が前園長です。

彼は生涯独身を貫き(名前は貫一、、、ま、関係ないか)ました。
従って子供はいないので、妹の子である私達をたいそうかわいがってくれました。
週に数回は妹の家庭に現れて食事をし、親でもなんでもないのに、いろいろ私達に説教をして、おかずなどを包んでから帰るという・・・、今考えると、妹(私の母)を溺愛していた(のか!?)。私の父はそんな義兄を喜んで迎えていた(のか?)など、考えることがあります。

でも、私が言いたいのは、そこではないのです。
私のおじチャンは、いっぱいの愛情をそそいでくれました。
親だけでなく、自分がその人にとって大切であると感じられること、その人が自分を心から愛してくれていると思えること、その安心を教えてくれたのです。

昔々の話。
私にはひとつ上の、できの良い(その頃は)、見かけもとてもかわいい(その頃は)姉がいるのですが、その姉に素敵なバッグが手渡されました。
いいなぁ」と私は思いました。
あれ?私には?」と当然思いました。
ですが、なぜか私にはバッグがもらえなかった。その理由がわからず、親から納得できるこたえもなく、私はただただ悲しみにくれたのでした。
かわいいもの、美しいものは私だって欲しいじゃありませんか!?
それなのになぜ姉だけが手に入れて、私にはないのか?

たぶん私は泣いたのでしょう。

すると、わたしのおじチャンは、自転車のうしろに私を載せると、駅前のお店へと走り、かわいくきれいな子ども用バッグを見せ「たみこ、どれがいい?」と聞いて、買ってくれました。

自転車の後ろからのび上がってバッグにさわろうとする私が、まだここにいます。
そのおじチャンが言ったと思います。

同じように! 子どもは平等・公平にしないといけない

言わなかったかもしれないけど、私は、私のおじチャンからそれを学びました。
学んだ以上に「大好きだ!」とも思いました。
毎週土曜日には、おじチャンの家(あっ!この幼稚園にだ!)に泊まりに行き、日曜日に帰る夕暮れには、帰りたくなくて、離れたくなくて、その頃の木造の園舎の園庭がみえるところで、おじチャンは子ども用の椅子に私を抱いて座り、「また、来られるよ・・・」と、静かに安心させてくれました。
包まれたうでのあたたかさ・・・。

そんな大好きなおじに、大きくなって
日の丸なんて、子どものへやにかかげてどうするんだ!
」「子どもは遊んで大きくなるのに、勉強させろとはなんだ!
と園長と職員になってから、血で血を洗う(言い過ぎ?)抗争に発展することになるとは・・・人間ってわからないですね(トホホ・・・)

でも、年をとった叔父は言いました。
私が娘を産んだ時に言いました。
戦争はあっても仕方ないと思っていたけど、この子が
  あの戦火を逃げ惑うことを想像すると、戦争は反対だ!

愛は広がっていくものなのですね。

人間は人を大切に思い、公平に心から愛されるもの。
私は私のおじチャンが、今でも大好きです。

私のおじチャン。

 

2015年10月

〜 もう二度と見たくない天気予報 〜

運動会のことです!

前の日までは「いやぁ〜、天気の心配しないですむってホントに楽だよね!」とみんなで言い合い、準備も着々と進んでご機嫌でした。
(天気のテの字も言い合わない…)

ところが… ところが、直前になって「土曜日は雨でしょう」なんて言いやがる。
とにかく子ども達はその日にあわせてできるようになろうとお互いに励ましあって練習しているんです。その日雨だからといって、休んで次の日にするわけにはどうしてもいかないのです!いかないのです!!

職員室ではまたまた、各社の携帯電話を取り出しては「あっ、60%だ!」「こっちはお昼は90%だよ」と10分もおかずに言い合う。一番雨の確率の高いところはみんなに口汚くののしられる。

なんだその予報は!その会社はダメだ!

少しでも雨降りの低い予想の会社は
エラい!いい予報だ!
とほめちぎる。

そして、あの運動会でした。

まつさんのリレーと「ミルクムナリ」はどうしても広いところでやりたい。
のびのびとやらせたい! と強く思い、プログラムの前の方に持っていく。

あ〜! 降ってきた
じゃぁ仕方ない。
次のプログラムを終えたら準備しておいた体育館へ。
用具は行ったり来たりするけど…。とりあえずみんなで動こう!と決める。

いつもの西小岩幼稚園の話し合いではなく、みんなまなじりを決して、パッパッと相談をして決定し、伝達する。

運動会委員のお母さんもお手伝いの方も、グズグズという人は誰ひとりとしていない。
みんなが見ている方向はまっすぐ子ども達へと向いている。

ポツポツ雨の時はもう体育館か!と覚悟を決めることもあったけど、どうでしょう・・・どうでしょう・・・!?
な、なんと全プログラムを外で終えたのでした!

ありがとう!
お父さん、お母さん、そして子ども達!

そうそう、朝のテント設営の時に、いつもの本部でなく園児席にテントを張ることにしたのです。
それが決定の時に支えとなっていました。
音響は濡れぬよう貧乏くさく雨傘さしかけて。
子どもさえ守れれば、なんとかなるから。

クラス対抗つなひきは、すみれ2組の圧倒的勝利でした。
どうしても優勝カップ授与式では「ターンターンタターーンターー」と演奏をしたいという「チカ、ヤス、キヨミ」が嬉しそうにシャシャリ出て演奏。
楽しくていい運動会になりました。

信頼して、いっしょに笑ってお手伝いしてくださったみなさん、ともに大きくなった子どもたちのことを喜んでくださったご家族の方、本当にありがとうございました。

そして私ことたみこさんは、携帯の履歴から「東京天気予報」というところをエイ!ヤッ!と消去。
削除したのです。

もう、もう二度と天気予報なんて見てやるもんか! 

運動会が終わっても、
できるようになりたい」という思いは、続きます。
なんと、休みあけ、逆上がりの練習をまだつづけていた子が、できるようになったのです!

担任はじめ全員が涙をあふれさせて喜びました。
やったぁ〜! やったぁ〜! よくがんばった!

そして個人面談の早く帰るおおいそがしのこの時期に、
よし! カレーパーティーだ! おめでとう! カレーパーティーだ!
とくちばしる人がいて、23日はまつさんのカレーパーティーに決定。
しかも前日の給食もカレー。。。

ところで来年のことなんですが、明日はきっと晴れるでしょう、となったら、当日は順延とします。
日曜日も予備日でお借りしておきます。
そして雨の予定日には、スミマセンが、「保育あり」とします(土曜日だけど)

どうだ! 

この頭の良さは! 

子どもがいれば土曜だろうが日曜だろうが、保育で気持ち盛り上がる!
ない頭をしぼって、西小岩小学校に頭を下げてあみだしたこのワザ!

(そうやって万端整えたら、きっとハレるんじゃないの?)

はぁ〜〜。
こうやってジタバタ、ドタバタ、
西小岩幼稚園の愉快な仲間たちは、
笑っているのでした!

2015年11月

〜 映画上映会を終えて 〜

「日本と原発」の映画の上映会を3回開きました。
1回目は、お母さん達向け、子供達は保育中の時間帯。
2回目はたんぽぽのない、水曜の午後。職員会議の時間に職員向けに。
3回目は…バザーが終わった水曜日。午後職員会議の時間に。みてくれるお母さんのお子さん達を保育しますから、と。

この3回目は、映画を見た職員達が、
どうしても小さい子がいて見にこられないお母さんのためにやりたい、
と言ってくれたのです。

そして当日。

30人近くの人が来てくれました。
子ども達はおだやかに外遊びをして…職員達は背中に赤ちゃん。
いやぁ〜、癒されるわぁ〜」となんともやわらかな優しい表情をして、おんぶしていました。

ホールでは、お母さん達が映画を見て、園庭では子供達が泥あそびや砂場であそび、職員の背中には赤ちゃん達がおんぶされている。
その様子を見て、私はやっぱり、子供達が希望だと確信しました。

敬愛する藤田さんが、松戸の方でご自身が主催してこの映画を見る会を開くところです。
この映画を観終わったお母さんが、
この映画は、私たちが借りて見ることはできるの?」と聞いてくれました。
いいねぇ。そうしたらみんなが見られるねぇ

原発がなくても電力は足りているのに、この事故を受けてもなお原発が動いている現実。
福島であ、どんぐりが落ちても「ひろってはダメよ!」と言わなくてはならない保育者。
どんな思いで毎日すごしているのでしょう…。

お母さん達が、お友達を誘い合って、リビングでお茶しながらでも見られたらいいなぁ〜と、私も思いました。

反原発と言えない、戦争法案反対と言いにくい、そんな空気を感じている今、テロにおびえながらシリアでも幼い子ども達が空爆によりたくさん殺される。

もう見たくない!聞きたくない!としゃがみこみたくなる時もありますが、子どもと共にいる私達は、ここでめげてはいけないのだと、一緒に仕事する仲間に支えられて、おひさまのもと、笑っている子供達を強く強くだきしめながら、さぁ、もう一歩一歩、歩いていく。(…つもり)

なにより、なにより「生命」が大切だから。

映画会…ありがとうございました!

2015年12月

〜 除夜の鐘 〜

明けましておめでとうございます。
今年はどんな年になるのでしょうか?

テレビで首相(?)が演説しているのを見ると、ちょっと目を背けてしまう私。

福島では原爆事故の後片付けもできないまま、数え切れない人々がいまだに苦しんでいるのに、オリンピックに向けてみんなで頑張ろうって…。

なんだか違う気がする。

憲法9条が壊されたら、確実に戦争の方向へ向かいますよね。
私はもう直ぐ死ぬからいいけれど、愛する子ども達、これから生きていく子ども達に私はなにをしていけばいいのだろう…と、年末・年始と考えてはため息をつく私。

希望を語る仕事なのに。

頑張れ私!

 

結婚する前、私はずっと実家住まいでした。
一人暮らしにどれだけあこがれたことか…。
でも、その昔は良家の子女(!?)は、結婚してしか家を出られなかったのです。
って、要するに、一人で暮らすことのできるお金はなかったってコト。

実家の保育園の3Fに、父母や姉弟と住んでいたのです。
ずっと子どもの声がして、保母さん(昔の言い方)のバタバタが聞こえて。
普通の女の子はお砂糖とかフリルとかキラキラとかでできているけれど、私は子どもの泣き声や笑い声やらで、できているのかも。

・・・なんの話でしたっけ。

そうそう。
そして、その実家の保育園は、その昔父親が戦後の混乱時に子どもを守りたいと地域の支援者とともに廃材を運び教員として働いて給料をつぎ込み、学習塾のバイトもしてようやく作り上げたのでした。

その後たくさんの人が保育園を作る時には父親のところに相談に来ていました。
その保育園も、70年!
父は7年前に92歳で亡くなりました。
病院を拒否し、子どもの声を聞きながら逝きました。苦労が大きかったけれど、幸せな人でした。

その保育園は、土地を提供してくれた隣のお寺の住職さんが、父の熱意に共感し社会福祉法人を作って、母子寮や他の土地に保育園も作って、世のため人のために大きくなっていったのです。
私と言えば、その実家の保育園で、父の園長の下、主任として10年、子どものための保育とは…!? と職員とずいぶん討論し学んできました。

そして、叔父の幼稚園である西小岩へと来たのです。
(その後は弟が高校教師をやめて、父の後を継ぎました)

それが!
いえ、私は歌舞伎の世界じゃないんだから、世襲なんて言ってるわけではないのです。代々男の子が役を継ぐなんて言っているのではないのです。(王様じゃあるまいし)

でも…70年にわたり続いているその保育園が、なんでも法人内での理事会、主として理事長の意見に賛成しなかったという理由で紛糾、非民主的な理由で、あっという間に理事会決定で園長解任されてしまったらしい…。
(弟よ…。)

理事会って強いんですね。
話し合いとかはないんですね。

もちろん、私が言いたいのは子ども達がどうなるのかということです。
心から子どものことを思い、育てようとする人が園長になってほしいのです!
でも、聞くとどうも違う。
経営権、とか、親族の誰かを、とか…。

大みそか、私はたいてい、実家のお風呂でとなりのお寺から聞こえてくる除夜の鐘を聞いていました。
あの頃の理事長は誰だったんだろう。
父親はよく「ヤソ教(父:キリスト教)も仏教(となりのお寺)もないよ。人の心だもの。子どものために力を尽くそうと同じ思いがあればいいんだ」と言っていました。

父もひげの長いその頃の住職さんもいなくなり、私は小さなマンションのお風呂につかりながら、あの時の除夜の鐘を心で聞いていたのでした。

「のっとり」(?)

いいよ。のっとられようが、なにされようが。

ただ、お願い! 

 子ども達を育てる仕事だということを忘れないで!

ボ〜〜〜〜〜〜ン!(鐘)

聞いてくれて(読んでくれて)ありがとう。
すこしスッとしました。今年もよろしくお願いします。